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2021年4月25日
心を低くして生きて行く

マルコの福音書9:33~37

(起)マルコ9章35節の「心の低い者となり、すべての者に仕える者となりなさい」という御言葉

から、「自分の心の醜い思い、罪を正直に見つめ、心を低くして生きて行く」事を学んで行き
たい

と思います。



(承)
さて、9章34節では、弟子たちが「誰が一番偉いかと、論じ合っていた」とあります。

これは、
どんな正しい環境の中に置かれたとしても、人の集まる世界では常に起ってくる問題です。

それは、
誰しもが
「自分が一番偉い者になりたい」という願望を持っているからです。何故かと

言いますと、元々はルシファーが「全能主より偉い者になりたい」という傲慢な思いを持ち、罪を

犯したからです。
そして、その罪が人間に入りました。だから、ルシファーの(そそのか)しに乗った人間は、

同じ罪の根を持ち、全ての
人間の心の中に「自分こそ偉い者になりたい」という野心が根付いたの

です。そして、この傲慢が生まれながらの人間の心の中に潜んでいる為に、小さな子供でさえ、

互いにケンカしながら覇権(はけん)争いをしているのです。ところが、その野心的な心は、主の弟子たちに

さえ支配していましたので、「誰が一番偉いのか」と言い争っていたのです。そこで、イエス様は

真逆な戒めを与えました。
「もし誰かが、最も偉い者になりたいと思うなら、その人は、心の低い者

となり、すべての者に仕える者となりなさい」
と言われたのです。なぜでしょうか?

 それは、全能主の国に入って行くのですから、
「心の低い者、仕える者」とならなければ、入れて

貰えないからです。
この「心の低い者」
とは、「被造物が全能主の上に立つことは、決して出来ない」

と言うことです。まして、「罪を犯した人間が、全能主の上に立って褒められようとするなら、

ルシファーのように傲慢になるだけです。」ですから、人は、
「自分の心の中の罪を正直に認めて、

遜って行くのが、全能主の御国に入る最低条件です。」
ところが、ほとんどのクリスチャンでさ

え、
自分の心の罪を正直に認めることをせず、逆に自分の罪から目を背け、罪を隠して、罪を棚上げ

して生きて行こうとしています。それは、自分の醜い部分、汚い部分を正直に認めると、「人から

馬鹿にされ、
いじめられ、役に立たない者かのように扱われる」と思うからです。そして、この世の

世界では、むしろ傲慢であるぐらいの「ガッツ」が必要だとされるのです。そして、実際は弱い者なの

に、そうでない者のように振る舞い、出来もしないのに見栄を切って、嘘をついてでも自分を良く

見せ掛けようとしているのです。そんな競争世界に、望むと望まざるとに関係なく、置かれている

のが私たちの世界です。



(転)
しかし、そのような中にあって、イエス・キリストの贖いを知った者と、そうでない者との

生き方には、大きな差があります。
なぜなら、こんな世の中にも、弱い者の為に用意された救いが

あるからです。それは、イエス・キリストの贖いの故に、自分の力によらず、救い主の憐れみに

よって罪の許しを受け、キリストの故に御国に入れて頂ける救いを頂いたからです。それは、「自分

たちの現在の状況がどうであろうが、イエス・キリストの贖いは過去において実現した救いであり、

私たちはイエス・キリストの贖いによって救われている」という、聖書のアオリスト形の救いに

預かっている事実があるからです。それならば、この救いを信じた者として、もうこの地上にあって

背伸びして生きていく必要が無く、ありのままの自分で、生きていける人生が新しく始まるのです。


その新しい生き方は、この世に救いを求めて行くものではなく、天の御国に入れて頂ける望みを頂い

て、ひたすら、この一点を見つめて生きていく生き方です。それは、この地上で名を上げるための

生き方ではなく、残された人生を全能主の為に使っていく命だからです。
ですから、この地上で偉く

なる為に生きる必要が無く、ただ天に繋がる生き方を目指せばいいのです。だから、変な野心を捨て

て、気負いしない生き方を始め出すのです。
それを一口で言うなら「心の低い者となって、主のため

に生きていく生き方」です。
ですから、私たちの人生は、人の上に立とうとか、偉い者になろうと

か、そういう競争意識を持つ必要は無くなったのです。だから、イエス様は、むしろこの世では

「心の低い者となり、仕える者となりなさい」(9:35)と言われたのです。私たちは、元々人前

に誇れるような優れた部分などありません。(ただ)の罪人で、立派な生き方を目指しても、到底出来る

ような者ではないのです。ですから、「魂の砕かれた人々よ、天の御国はあなた方のものです」

(
マタイ5:3)と、イエス様が言って下さいました。だから、「イエス様が良いと言われたなら、

それで良し」と心の中に入れ、その心で社会に出て行くなら、私たちは虚栄を張らず、見栄も張って

自分を誤魔化す必要もありません。また、自分に律法を課せて、「あれもやり、これもやっていま

す」と言う、偽りの自分を見せる必要もありません。「罪人である者に救いがあるのですから、

自分の罪は正直に認めて行けば良いだけです。」
もし私たちが、自分の罪をいつも見つめ、その

罪に追い立てられて苦しむという事があれば、それで丁度です。自分を責めて、自分に嫌気を指し

て生涯を生き抜くことがあっても、それは罪人のクリスチャンなら当然の生き方です。それは罪人

にとって正直な生き方ですから、全能主は、「そのお前のためにイエスの贖いがある」と言われ、

私たちを受け入れて下さいます。だから、私たちは自分の罪を棚上げせず、自分の前にある罪を

見つめて、自分を責め、苦しみ、自分の惨めさから逃げなければ、全能主はイエス様の十字架の

苦しみを通して人に与えた贖いを、「私たちの為のもの」と見て下さるのです。なぜなら、私たちの

罪は、いつも自分の目の前にあるからです
(詩篇51篇3節)ですから、むしろ、それを棚に上げ

て、罪人の自覚を失ってはいけないのです。私たちは、現実に、自分の醜い罪を見れば、悔いも

起こってくるし、過去の嫌な自分を思い出しもします。でも、それは罪人なら当然です。それをしな

ければ、サタンは追い打ちをかけて、責め立てて来るでしょう。また、それを否定したところで

自分の罪はなくなりません。又、見栄を張って否定したところで、自分の罪はどこまでも追いか

けて来るだけです。だから、むしろ素直に認める心を持って、「私は罪人です。しかし、私にはイエ

ス様の贖いがあります」と言えばいいのです。そこに私たちの救いがあるのは確かですから。



(結)もし、私たちが律法学者やパリサイ人たちのように「いつも自分の正しさを表して行かなけ

ればならない」としたら、それは大変な人生になります。しかし、イエス様が「心の低い者であり

なさい」
と、全く逆のことを言って下さるなら、「私たちはそれに徹して背伸びせず低い心で

社会に出て行けばいいのです。」
もし、それで私たちが馬鹿にされ、心を踏みにじられるようなこと

があったとしても、心を騒がす必要はありません。全能主とイエス様が「それで良い」と受け入れて

下さっているのですから、全能主が良いと言われた以上、平安な心を持って人の(あざけ)りを受け留めて

行けばいいのです。これが救われた者の強さです。どうか、自分の心の中の醜い思い、罪を正直に

見つめ、心を低くして行きましょう。
そして、そこに私たちの幸いがあることを味わって行こうで

はありませんか。


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