2021年11月7日
『全能主の思い通りに生きて行く献身の決断』
使徒の働き9:36~43
(起)「全能主の思い通りに生きて行く献身を決断し、それを妨げる肉の感情を封印して行くこと」を
学んで行きたいと思います。
(承)さて、ヨッパという所に、数々の良い行いや施しをしていた、タビタ(ドルカス)という女性
の弟子がいました。ところが彼女は、病気になって死んでしまったのです。そこで、その地の弟子
たちは、近くの町まで来ていたペテロを呼んで、彼女を安置していた部屋に案内しました。
すると、やもめたちが側に来て、タビタが生前作ってくれた下着や着物を泣きながら見せたのです。
ペテロは、彼女たちを哀れに思い、全能主に彼女の甦りを願いました。そして、ペテロが人々を
外に出して祈り、遺体に向かって「タビタよ。立ち上がりなさい」と言うと、彼女は目を開け、起き
上がりました。何と凄いことでしょうか。このことは、町中の人々に知れ渡り、多くの人々が主を信じ
ました。同じことが、これから、この春日井の町でも起こって来るはずです。ですから、このような
働きのために用いて頂くことは、私たちの心からの願いです。
(転)では、私たちがこのような働きに用いて頂くために、いったい何が必要なのでしょうか。
それは、「自分の手の中に、しっかり握りしめていた自分自身を明け渡し、全能主の思い通りに使って
もらおう」という決意を持つことです。ペテロは、以前、自分の思い通りの生き方をしたいと思い、
自分の命を自分の手に握って失敗した人です。ところが、そのペテロが全能主に自分を明け渡し、
全能主の思い通りに使って頂くよう、心を開いたとき、タビタの甦りのように、全能主は驚くべき印
をペテロを通してなされて、御言葉を堅くされました。これは、実に私たちが求めて来た生き方の
手本です。人間というのは、「自分で自分の思い通りの成果を出して認めてもらいたい、褒めても
らいたい」という、強い感情を持っています。だから、ペテロもイエス様から褒めて貰うために
「たとい、皆の者がつまずいても、私は決してつまずきません」と、イエス様に認めてもらおうと
言い切りました。しかし、実際はその言葉通りには出来ず、自分で自分を簡単に裏切ってしまい、
激しく泣いて、どん底まで落ちて行った人です。ペテロは、この経験を通して、「自分の思い通り
には何も出来ない」ということを心底味わいました。そんな彼が、「聖霊のバプテスマを受けた時」
に、今まで自分の手で握っていた自分の命を手放し「自分では出来ませんが、全能主のお考えの
通りやります」と、心を切り替えました。そして、全能主はそのペテロを用い始められました。即ち、
ペテロが「自分の思い通りではなく、全能主のお考えに合わせて行く」という生き方を始め出した時に、
全能主はペテロを通して栄光を現わして行かれたのです。私たちも、この生き方を始め出して行く
なら、全能主は、私たちも使って下さるはずです。それには、人の心の中に在る臆病とか、全能主
に逆らう感情、嫌だと思う気持ちを封印しなければ、ここのことは出来ません。これが、私たちの
献身というものであり、その決意から全能主の働きが始まります。多くのクリスチャンは、「自分
の思い通りではなく、全能主のお考えに合わせて行く」という遣り方をせず、自分勝手に主の
働きをしようとしています。それは、ただ自分の感で、全能主の働きに参加して行こうとしている人間
の間違った意識です。ペテロもパウロもアナニヤも、そういう所から、心の転換を迫られ、献身の
決意を持って「人よりも、全能主の権威に従うべきです」(使徒5:29)という、その決断を
持ったからこそ、全能主に使われ始めたのです。ところが、ここで注意して欲しい事は、私たちの
肉の感情は、死ぬまで消えないということです。ところが、全能主に従うという事は、私たちの
生活全般について、自由を失うわけではありません。例えば、「今日、何を食べるか、何を飲むか?」
について、全能主にいちいち聞くことはありません。ですから、全能主の御心と関わりのない衣食住
については、自分の思い通りにやったとしても、それは問題ではありません。基本的に異邦人に
対しては、聖霊と使徒達は、エルサレム会議で決めたこと以外には、「何一つ負担を負わせない」と
決議したのです。そのことは、全能主に従うことにおいて、何の妨げにもならない事柄であるなら、
私たちには自由があるということです。しかし、いざ全能主の御心に従う場合の妥協は、すべて
不信仰に繋がりますから、肉の感情は勇気をもって手放す決断が必要なのです。ですから、「霊的な
事柄は、自分の思い通りでは無く、全能主の考えに合わせていく」というのが、私たちの信仰の
使い所です。しかし、「何を食べ、何を飲むか」については、その前に、まず全能主を第一にする
と心を定めていたなら、その人が自由にしても、何ら問題はありません。しかし、献身の心が無い
なら、未信者と同じことになりますので、まず献身の心さえ揺るがなければ、他のことは自由に
しても良いのです。ということは、「クリスチャンは、いかにも品行方正で道徳的な人間になる
ことが献身ではない」ということです。ただし、全能主を第一にして行く道を妨げるような声や肉の
感情は、大胆に退けて行くのが御心に適ったクリスチャンの在り方です。献身とは、「たとえ、叱られ、
否定されても、謙って主に従って行くこと」です。ですから、時には「自分には出来ない」、「嫌だ」
と思うことも、全能主や牧師から「やりなさい」と言われたら、その時には「出来ない」、「嫌だ」
という感情は封印し、素直に「やります」と言う、信仰の心を表わして行くべきです。全能主は、
長い間私たちが、この信仰の道を選択し、決意することを待っておられました。だから、今日から
始め出して行くならば、全能主は私たちの教会を豊かに祝福して、用いて下さることでしょう。
(結) こういうわけで、献身とは、「自分を明け渡し、全能主の思い通りに生きて行く」と決意
して行くことです。そして、「全能主の御心を否定したり、反抗するような感情は封印して行くこと」
です。その封印は、地上で主に仕えて行く以上、死ぬまで行い続けて行くものです。私たちは、地上に
いる限り、心の中に魔物を抱えています。その為、この魔物は、封印した心に常に挑戦して来ますが、
それでも、「全能主の思い通り、イエス様の思い通りに生きて行きたい」という心を手放さず、この
生き方を通して行くなら、私たちは、たとえ人から非難されたり、馬鹿にされたり、この信仰に反対
する者が現れて殺される羽目に遭ったとしても、全能主の御心に従って死ぬのなら、「それで良し」
です。なぜなら、私たちには天に全能主の御国が待っているのですから。どうか、全能主の思い
通りに生きて行く献身を決意し、それを妨げる肉の感情を封印する生き方を始め出しましょう。
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