2021年11月14日
『とことん仕えて行く献身の歩み』
使徒の働き15:19~20、28~29他
(起)「イエス様が私たちを律法の支配から解放して下さった御蔭で、何も縛られずに全能主に
従って行くことの出来る自由を得たので、その与えられた自由を最大限に使って、とことん全能主
とイエス様に仕えて行く」献身の歩みを学んで行きたいと思います。
(承)さて、アンテオケの町では、異邦人の人々が信じるようになって来たため、アンテオケの
教会ではユダヤ人と異邦人が一緒に集まるようになって行きました。そこへ、エルサレムから
下ってきたある人々が、異邦人の信者を見て、律法をしきりに説き、「あなた方も、モーセの慣例
に従って割礼を受けなければ救われることができない」と言い始めたのです。そのため、パウロ
たちと深刻な対立が起りました。そこで、パウロ達はこの問題について、エルサレムで協議する
ことにしました。パウロ達がエルサレムに着くと、ペテロはユダヤ人の同胞に対して、律法は
「私たちの先祖も私たち自身も負いきれなかったくびき」と表現し、「自分たちも律法の下にあった
が、よくよく考えてみれば、それは自分たちも負いきれなかったもので、守り切れない掟だった」
と言い、「今私たちは、キリストの恵みによって救われ、異邦人の彼らも全て同じ方法で救われた
のです」と語ったのです。これは、どういう意味かと言いますと、「イエス様は山頂の垂訓で、
『パリサイ人の義に優っていなければ、決して天の御国に入ることはできない』(マタイ5:20)
と言われましたが、その言葉をまともに受け留めたなら、誰も律法を守って来た人はいません。
しかし、『自分たちは、律法を守ることによって全能主の前に受け入れられるのではなく、イエス
・キリストの十字架の贖いを信じることによって、恵みで救われたのであって、それはユダヤ人も
異邦人も同じで、何の区別もされなかった』」という意味でペテロは語ったのです。ですから、
このペテロの話は、異邦人にとっても、ユダヤ人にとっても有り難く、嬉しいメッセージでした。
(転)ところが、ユダヤ人たちは、この話に対して反感を持ちました。ところが、彼らは、ペテロ
が言うように「厳格に律法を守って全能主の前に正しい行いをしてきたのか?」というと、そうで
はありませんが、「そこを目指してやってきたという生き方は、否定されたくない」という自負が
あったのです。しかし、彼らは、根本的に、自分たちは罪人であるという事実を認め切ることが
出来ない部分があったのです。先日もお話しした通り、全能主が人間を罠にかけて罪の中に閉じ
込め、アダムとエバ以来、全ての人間が罪の中に閉じ込められている状態にある以上、ユダヤ人が、
幾らキリストによって救われた者になったからと言っても、律法を守れる人間になった訳では
ありません。これと同じように、クリスチャンも「模範的な人間でありたい」という思いを持って
も出来るわけがないのです。むしろ、「生まれながらの罪人であり、決して正しい人間では無い」
ということを、正直に受け留める真面目さが必要です。それさえあれば、「自分が罪人だ」という
ことは当然認めることはできるはずです。ここを悟った時、初めてイエス様の贖いによる救いを、
心から喜べるようになるのです。そして、今まで決別していたユダヤ人も異邦人も、皆この部分
で一致できる筈です。また、元々私たちは異邦人ですので、異邦人に対するところのエルサレム
教会の決議文は、「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、姦淫とを避けるように」という
ことだけでした。しかもこれは律法ではありません。律法は既にイエス様によって廃止されていた
からです(ロマ7:6、10:4、ヘブル10:9、エペソ2:15)。ですから、「これはいけ
ません」、「あれはいけません」、また「これは絶対すべきです」というような戒めも一切与えら
れていません。むしろ、「それ以上何一つ負担を負わせないことが、最善と考えました」とまで
決議されたのです。ということは、イエス・キリストの贖いを信じる心をしっかり持っているなら
ば、他のことにおいては自由だということです。そして、イエス・キリストを信じ、全能主に
従って行くことをまず第一にする心があれば、異邦人であろうがユダヤ人であろうが、全能主は
天に引き上げて下さるということです。この事が分かったら、「あーそうか」と言って、そこに
自分自身の心の土台を据えて、「生涯全能主に従って行きたい」という献身の定めをしていけば
いいのです。私たちは律法で買い取られたのではなく、恵みで買い取られました。ならば、信仰に
よる自由な心で「本当にありがとうございます。自分にとってイエス様の救いが、全てです」と
いう心を持って、主に仕えて行けるのではないでしょうか。
(結)繰り返しですが、ペテロは律法について何と言ったのでしょうか。それは「私たちの先祖も
私たち自身も負いきれなかったくびき」と言いました。それは、全ての人間に当てはまります。
何故なら、全ての人間が罪の中に閉じ込められた罪人だからです。だから、いかにも品行方正な
正しい生き方をして行くのがクリスチャンと思ったら、信仰は崩壊します。また、その生き方を
目指しているという事が、義でもありません。なぜなら、クリスチャンも死ぬまで罪人だから
です。「私たちは、罪を贖われた罪人です。」ですから、正直に自分の置かれた罪人の状態を受け
留め、「イエス様の贖いだけが、自分の救いの土台です」と確信して行っていいのです。ならば、
「生涯イエス様に従って行く」と心を定めましょう。その他のことは、放縦にならなければ自由に
して良いのです。ただし、全能主を第一にするという心だけは失ってはいけません。恵みだから
といって放縦な生き方に心を寄せることは、恵みを利用することになります。全能主は、それを
一番嫌われます。しかし、罪人の人間は、罪を犯しますので、その過ちだけは認めて、心を切り
替えていけば良いのです。即ち、全能主やイエス様を横に置いて、自分のしたいことをする為の
救いでは無いということです。だから、私たちはイエス様の救い以外の所に、心を寄せて行くの
は間違いです。もちろん自分に心を寄せて行くのも間違いです。ただ、私たちは「全能主に従って
行く自由を得た」のですから、もう信じて行くことに臆病になり、情けない自分に捕われてはいけ
ません。「あれが出来ない、これが出来ない」と自分を縛ってもいけません。弱い人間だからこそ、
ただ「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」という御言葉を信じて行くのです。その大胆な生き方
の根拠は、「イエス様が律法から解放して下さった御蔭で、何も縛られずに、大胆に全能主に
従って行くことの出来る自由を得た」からです。その自由を最大限使って、とことん全能主とイエス
様に仕えて行く生涯を全うしようではありませんか。
|
|