絶対主が、「人に好感を抱いてその人物と進んで交わりを持つことを良しとされる
者」とは、どのような者のことでしょうか。それは、絶対主の性質から読み解く時、
絶対主は人が自分の犯した過ちを悔いて全面的に認め、その責めから責任逃れをせず、
メンツを砕いて怒られることを受け留め、へりくだって無条件降伏をする者です。
なぜなら、絶対主が罪人に求める心は、詩篇51篇17節に「絶対主への生け贄は、
砕かれた魂。砕かれた悔いし心。絶対主よ、あなたは、それをさげすまれません。」と
あるからです。この御言は、ダビデが罪を犯し、ナタンからその罪を咎められた時、
彼は王としてのメンツを砕いて正直に自分の非を認めて悔いました。そして、その罪の
報いを受け止め、自分を守ろうとする心を砕いて無条件降伏をしたのです。その時、絶対
主はダビデの「砕かれた心」をご覧になって、「砕かれた悔いし心をさげすまない」と言わ
れたのです。
このように、私たちは聖書を見ていく時、「どんな罪を犯した者でも、心から罪の悔い
を表す時、その砕かれた心を受け留めて下さる」という事が分かります。それは、絶対主
に信頼されていたダビデであっても、その生涯の中で汚点を残さない人間は一人もいない
からです。なぜなら、全ての人間は生まれながらに罪の性質を持っており、その罪人に
対する絶対主の対応は、必ずしも「人が罪を犯さない人間だから受け入れられる」という
ものではないのです。たとえ罪を犯す者であっても、その罪の責任を正直に受け留め、
自分の非を完全に認めて、「如何に『へりくだり』の心を表すか」に掛かっているから
です。絶対主は、人間が罪の中にあることはご存じです。しかも絶対主は、人の罪に
関する全ての債務証書を無効にされ、イエス様の贖いによって完全に廃棄して十字架に
釘付けにされました。(コロサイ2:14)」ですから、絶対主は、私たちをキリストと
共に生かし、私たちの一切の罪を赦して下さった(アオリスト)のです。
だからと言って、私たちは、罪を犯さない人間に成った訳ではありません。現実は、
「罪を赦された罪人です。」だから、この地上の生涯を終えるまで肉の性質は変わりま
せんので、罪を犯してしまう罪人に変わりありません。そこで、問題なのは、罪を犯し
たときに如何に正直にその罪を負い、その報いとして落とされるところまで落ち切り、
罪を認め切るかが問題です。だから、悔いて謝ることはしても、自分が責められて落と
される事から逃げていくなら、それは、たとえ罪を悔いた心を持っていたとしても、罪を
認めたことには成りません。ですから、絶対主はそういう人間とは、交わることを嫌われ
ます。それは、人が落ち切るのを嫌い、罪の咎めから逃げ出し、罪をうやむやにしよう
とする者を、絶対主は一番嫌われるからです。
ですから、絶対主が、「人に好感を抱いてその人物を信用し、交わりを持つことを良し
とされる人物」とは、メンツを捨てて自分が罪を犯した張本人であることを認めて無条件
降伏して、落とされるところまで落ち切る人です。それは、絶対主が人の罪の解決を
イエス様の死を通して与えて下さっているからです。このように、絶対主から信頼され
て交わりの中に入れて頂くことは、何物にも代え難いことですから、ただへりくだって、
罪を正直に受け留め、告白する砕かれた心を表して行きましょう。
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