第二弾 『絶対主からのものか、悪霊からのものか?』 |
絶対主からの語り掛けか?それとも悪霊からの語り掛けかを見ぬく力は、クリスチャン
にとって大切な信仰の要素です。なぜなら、悪魔も光の天使を装って来ますから
(Uコリント11:14)、堅く信仰に立っていないと簡単に悪魔の罠に填ってしまう
からです。その悪魔の罠を見極める力は、どこから来るのでしょうか? それは「砕かれ
た心」です。悪魔が仕掛けてくる特徴は、こちらの同意なしに、無理に、強引に引き寄せ
て行こうとする点です。絶対主は決して強引ではありません。なぜなら、信じる心は、
自由意志に基づくものですから、絶対主は信じる信仰の心を重んじられるのです。
しかし、悪魔は強引に引き寄せていきます。なぜなら、絶対主に逆らわせるのが目的だ
からです。その悪魔のやり口は、私たちの弱点に働くことです。その弱点とは、「人は
リスク(損失)を負いたくない」、「損はしたくない」、「惨めさを味わいたくない」、
「恥を受けたくない」という私たちの自分勝手な思いを悪魔は見透かしていますので、
「その心を砕いてまで、絶対主に従うことは出来ないだろー」と畳み込んできます。
私たちは、見栄の塊です。ですから、「絶対主を信頼し、絶対主にすべてを懸けていく
こと」から逃避させ、楽な道に誘います。そして、人の肉の願望通りにすることを奨励
してきます。この悪魔の罠に填まると、抜け出す道がなくなります。自分の肉の本音
を嫌と言うほど、思い知らされるからです。そして、その悪魔に従った結果は、どうにも
ならない不信仰が心に残るのです。すると、その結果は、悪魔に騙され、自分に失望し、
絶対主にも素直に頼れなくなるのです。「自分は駄目だ」という虜になるからです。
こうして私たちを不信仰にするのが、悪魔の目的です。悪魔は、私たちの心の弱さを
見透かして脅してきます。しかし、イエス様は脅して従わせる方ではありません。
なぜなら、信仰は個人の自由意志で、信じる者に「地上にはない天のパラダイスの幸い」
を与えようとされる方だからです。ですから、私たちが信じたいと思うなら、地上では
十字架を負って(死を覚悟して)従って来なさい(マタイ16:24)と言われました。
なぜなら、人間には、この地上に望みはないからです。罪人が幾らこの地上に望みを抱い
ても、死しかありません。この地上は裁きのためにとっておかれているだけです。
ですから、この地上の栄光を幾ら求めても騙し事の幸いでしかありません。しかし、
私たちは、永遠に生きる天の都での幸いを約束されています。だから、それを本気で信じ
て求めて行くことを、主は願っておられるのです。このように、悪魔とイエス様が違う
点は、悪魔は人を無理に強引に引き寄せることです。それは、信仰ではなく、脅しに
よって「人を屈服させ」従わせようとするのです。しかし、主に従う道は、自分の信仰
により、へりくだりの中で、本人の決断でリスクを負う事を始め出します。これが、
純な信仰の大切な要素です。そこにあるのは、自分の決断による「砕かれた心」が動機で
す。しかし、悪魔に恐怖心を持ち「屈服させられて」従うのは敗北です。ここが大きな
違いです。だから、今のうちに、自分の自由意志によって絶対主にへりくだり、本当の
「砕かれた心」をもって従い通されたイエス様に習い、堅く信仰に立っていきましょう。 |
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