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2019年1月19日

『全能主を信じるのは当たり前』


ルカの福音書14:25~35


(起)ルカ14章34節の「もし塩が効き目を失ったら、何によって塩味が取り戻せましょうか」

という御言葉から、「クリスチャンにとってのききめは、全能主を信じるのは当り前」ということ

を定めた人であることを学び、その信仰を土台にして、新年を始め出して行きたいと思います。

(承) さて、34節を見ますと、「もし塩が効き目を失ったら、何によって塩味が取り戻せ

ましょうか」とありますが、それは私たちクリスチャンにとっても言えることです。

クリスチャンにとっての「効き目」とは「全能主を信じる信仰」です。ですから、私たちが全能主

を信じる信仰の効き目を失ったら、何によって全能主の全能の力を証し出来るでしょうか?

それは31節からの譬えで語られています。もし、人々が戦いに出て行く時、二万人を率いて

向かって来る敵に対して、こちらの一万人をもって対抗できるかどうかを考えた時、勝つ見込みが

なければ、和平を求めるでしょう。しかし、それでも「全能主は絶対なるお方だから、全能主に

頼って戦いに出て行くぞ」と、決断して出て行くなら、そこに全能主は働いて下さり、「たとえ

負ける戦いであっても、全能主は勝利を与えて下さる」とあるのです。それは、悪霊の追い出し

においても同じことが言えます。弟子達は、イエス様のように悪霊を追い出すことが出来るか

不安でした。 しかし、彼らは、「全能主がやって下さる」と信じて、悪霊に「出て行け」と

命じた時、悪霊は出て行ったのです。このように、「自分には力がなくても、全能主はして

下さる」という意識で前に踏み出して行くなら、道は開かれて行くということです。ということ

は、
私たちにとって必要なものは、自分自身の能力や信仰の量ではなく、「全能主を信じる心」

です。


(転)では、「全能主を信じるのは当たり前」という心になるには、どうしたら良いのでしょう

か。それは、「自分は全能主を信じる」と、はっきり定めた心から始まるのです。これがなけれ

ば、私たちはいつまでも、生まれながらに無力な弱い自分自身を信じ続けるだけになります。

実は、私たちがキリストを信じた時、「罪人の自分では、どうにもならない」ということを知っ

て、イエス・キリストの贖いを信じ受け取りました。ならば、信じた後の生き方も、自分を信じる

のではなく、「全能主を信じる」というところに立って生きて行くのは当然のことです。

そして、「自分は全能主を信じる」とはっきり定めたなら、その瞬間に、臆病な心、疑う心、

不安な心は自分の中から消えて行き、
たとえ自分にとって苦手なことであっても、一つ一つやって

行こうという心が出て来ます。
なぜなら、「自分は全能主を信じる」と決めたからです。

もちろん、一歩踏み出せば必ず成功するという訳ではありません。しかし、たとえ失敗して打ち

のめされても、それでも私たちは全能主を信じていますから、次の一歩を諦めないのです。

 このように、私たちがどこまでも全能主を信じて、諦めずに前に向かって行こうとするなら、

全能主は必ず助けて下さいます。その時、私たちは、「信じる者に働く全能主の全能の力が如何

に偉大であるか」を味わい知るのです。ですから、私たちは勇気を持って全能主を信頼する方向

に心を定めるべきです。いつまでも自分自身を見て、「自分はダメだ」というところに留まって

いてはいけません。それでは未信者と同じになってしまいます。そういう人は、たとえ「イエス・

キリストを信じている」と言っても、それは頭だけで、そこにクリスチャンとしての「ききめ」

は一つも顕されず、何の役にも立たずに外に投げ捨てられてしまうのです。

(結)
そこで、私たちは、
「全能主を信じるのは当たり前」という信仰に立ちましょう。

全能主は永遠のお方であり、全能主が絶対であられることは永遠に変わりません。だから、私たち

は永遠に全能主を信頼するのです。
それは私たちにとって当たり前のことなのです。

しかし、ルシファーは、いつもちょっかいをかけて、「お前なんかに信じる力はないだろう」と

脅かして来ます。そういう時は、
「元々私は罪人だから、不安を感じることもあるし恐れもある。

しかし、あえて私は全能主を信じると決めたのだ」と、持ちこたえましょう。
この世のほとんど

のクリスチャンは、「全能主を信じている」と言いながらも、実際にはただ教会に来ているだけで

終わっています。それではクリスチャンであることの意味がありません。すなわち、クリスチャン

としての「効き目」がありません。私たちは、
「全能主を信じる」と定めた者としての信仰を

顕して行く
のです。これが、クリスチャンの「効き目」です。どうか、「全能主を信じる」と

定めた者の
生き方が、どんなに全能の力が偉大かを証しして行きましょう。


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