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2020年1月12日
信じることが当たり前の信仰

ルカの福音書9:37~42


(起)ルカ9章37~42節の、「悪霊を追い出すことができなかった弟子たち」の記事から、

「『自分は何があっても全能主を信じる』と定め、『信じることが当たり前』という土台に立っ

て、精一杯全能主にお仕えさせて頂く」ということを学びたいと思います。


(承)さて、イエス様は、ペテロとヨハネとヤコブを連れて変貌の山に登っていたのですが、

山から降りて来ると、そこに大勢の群衆が集まっていました。すると、一人の父親が「私の

息子に悪霊が取り憑くと、泡を吹かせ引きつけさせます。そこで、お弟子たちに、この霊を追い

出して下さるようにお願いしましたが出来ませんでした」と言いました。すると、イエス様は、

「ああ、なんという、信じようとしない曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなた方に

我慢ができようか。あなたの子をここに連れて来なさい」と言われ、その子の悪霊を追い出して

癒されました。この時、弟子たちは「どうして悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか」

と主に尋ねています(マタイ17:21)。すると主は、「これらのたぐいは、祈りと断食に

因らなければ出て行きません」と言われました。しかし、「断食すれば、天から力が与えられて、

悪霊を追い出すことができる」ということではありません。この場合、「祈りと断食」というと

ころに焦点を合わせて語られているのではなく、「あなた方の信じる心が薄いからです」

(マタイ17:20)というところに焦点を合わせて語られており、「悪霊を追い出すことが

できなかった原因は不信仰にある」とイエス様は指摘しておられます。では、その「信じる心」

とは一体どのような心でしょうか。それは、「信じて疑わない心」です。すなわち、「イエス・

キリストの御名によって悪霊に命じれば、出て行くのは当然です」という心です。それは、

「信じるぞ、信じるぞ」と心の中で言い聞かせる事ではありません。むしろ、「言い聞かせる」

ことは、心の中に不安と恐れがある証拠です。心の中に不安と恐れがあるから、「それではいけ

ない。自分は信じるのだ」と、無理矢理自分に言い聞かせようとしているのです。そうではなく、

私たちは、「信じる心が、当たり前」となっていなければなりません。

(転) では、「信じることが当たり前」という心になるには、どうしたら良いのでしょうか。

それは、ジョージ・ミュラーさんの信仰を真似ることです。ミュラーさんは、自分の所に集めら

れてくる孤児が、30名、50名、70名、100名、200名と、どんどん増えて行った時、

「これだけの人数の孤児たちを育てて行くことができるだろうか」と不安になったり、疑ったり

はしませんでした。なぜなら、ミュラーさんにとって、「孤児の父は全能主だから、全能主が

養って下さる」と信じることが、当たり前になっていたからです。では、どうしてミュラーさん

は信じることが当たり前になっていたのでしょうか。それは、「全能主を信じる」とはっきり

決めていたからです。ただ信じると思うだけでなく、また、自分に言い聞かせるのでもなく、

「『孤児の父は全能主である』という聖書の御言葉を勇気を持って信じる」と決めていたから

です。ミュラーさんの信仰の土台はそこにありました。  

 しかし、私たちにはその信仰の土台がありません。すなわち、はっきりと「全能主を信じる」

と決めていないのです。それは、いつまでも自分自身を見て、自分の不信仰に怯え、自分の力に

頼り、自分自身に期待しているからです。だから、「自分には出来ない」と思うと、簡単に諦めた

り、逃げ出したりしてしまうのです。そのように、「出来ないことは、出来ない」という考え方

を持ったまま患難時代に入ったら、私たちはどうなるでしょうか。迫害を受けて、「こんな

苦しい状態は自分には耐えられない。我慢できない」と思ってしまうでしょう。そうなれば、

簡単に666の側に付く者となってしまいます。そこで、
普段から信じて戦って行こうとする

気骨を(つちか)っていかなければ、私たちは患難時代を通って行くことはできません。


その気骨は、
「自分は全能主を信じる」と定めているかどうかです。私たちは、そこの部分を、

ミュラーさんのように明確にしなければならないのです。


(結)ミュラーさんは、「『孤児の父は全能主である』という御言葉に接し、それなら全能主に

育てて貰おう」と、信じることを定めたのです。私たちも、そこからスタートしなければなりま

せん。「信じる」と決めたら、不安な出来事が起こってきても、「自分にはできない」と言って

逃げ出すことはないでしょう。信じると決めたからです。確かに、不安な出来事は一杯起こって

くるでしょう。そして、一時不安の虜になることもあるでしょう。しかし、
信じると決めたの

ですから、「自分にはできない」と思ったとしても、「自分は全能主を信じたのですから、やり

ます」と、持ちこたえるでしょう。こうして、どんな試練にも持ちこたえていくのが、信じる

信仰を決めた心
です。
私たちも、この信仰にチャレンジして行きましょう。どうか、「全能主を

信じる」と定める決断を始め出しましょう。この決断をいつまでも曖昧にして、先延ばしにして

いてはいけません。確かに、生まれながらの自分は、罪人で、弱くて、信じることに臆病です。

しかし、そこに留まっていたら、ルシファーを喜ばすだけです。ですから、不安な心を信じると

決めた決断で乗り越え、「自分は全能主を信じるのが、当たり前」」と決めたところから信仰を

始め出しましょう。いい加減、目を覚まして、「自分にできることはやるけど、できないことは

やらない」という生き方には、おさらばしましょう。そして、
「自分は何があっても全能主を

信じる」と定め、「信じることが当たり前」という土台
に立って、全能主に懸けていく生き方

を始め出して行きましょう。


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