二股を掛けるとは、「あれに付き、これに付き」と、態度の一定しないことを意味
します。すなわち、二つの事柄のどちらになってもよいように、同時に両方に
関わりをもつことです。これでは、信じたということにはなりません。このような
信じ方は、絶対主が一番嫌われるものです。「『主よ、主よ』と言う者が、皆天の
御国に入るのではありません(マタイ7:21)。なぜなら、人は誰も二人の主人に
仕えることは出来ないからです。それは、一方を重んじ、他方を軽んじることになる
からです。」ですから、絶対主を信じるということは、自分と絶対主に懸けて行く
生き方ではなく、信じる時の切っ掛けが、「自分が罪人で、どうにもならない者で
ある」ということが分かり、自分の力では自分を救うことが出来ないことを知って、
キリストに依り頼んだのです。そこで、「私たちはイエス様に全てを懸けて信じて
行くと決めたはずです。」なのに、信じた時から自分とイエス様の両股を掛けて教会
に来ていたとは、恐ろしい裏切りです。それは、自分が信じた告白を欺き、また命を
懸けて罪の贖いをして下さったイエス様を欺いて来たことになります。こんな二心を
持って、どうして信仰を全う出来るでしょうか? 必ず、どこかで崩壊します。
それなら、今のうちに自分の肉に信頼して生きるか、絶対主を信頼して生きるかを
決める必要があります。どちらが、私たちの本心なのでしょうか?
現実の私たちの心の中には、二つの本心があります。一つは「絶対主に懸けて
生きて行きたい」という本心と、「自分の肉の声に従うしかない」という肉の本心の
二つです。どちらも、私たちの本心として心の中にある思いです。しかしながら、
この二心ではキリストの救いに繋がることはありません。それは、キリストの救いを
単なる気休めとして利用しているに過ぎないからです。もし、本気でキリストの救い
が必要であると信じるなら、キリストに懸けていかなければいけません。しかし、
肉を持った罪人の私たちでは、「肉の思いを消す」ことはできません。また、「罪や
過ちを犯さない」とは言えません。心の中にはウソが渦巻き、見せかけの正義しか
主張できない者です。こんな肉の性質を持っている者が、天のパラダイスに行ける
わけがありません。しかも、人は地上にいる限り、弱い罪人です。そんな私たちが、
絶対主に懸けて行くと決断することは不可能でしょう。しかし、イエス・キリストは、
私たちの罪を消すために来て下さったのではなく、どうにもならない罪人を贖うため
に来て下さいました。ですから、絶対主に懸けて行く決断は自分を依り処にするなら
無理ですが、絶対主を依り所とするなら可能です。「絶対主に懸けて生きて行きたい」
という思いは、私たちの霊の本心としてあります。それは偽りではなく、私たちの心
の底からの願いでしょう。もし、その願いがあるなら、その「霊の本心にウエイトを
置いて生きて行く」と、決断しても良いのではないでしょうか?
この決断をするこ
とは、自分を誤魔化すことでしょうか?そんな筈がありません。なぜなら、それが
自分の霊の本心なら、偽りではありません。確かに肉の本心もあります。しかも、
この肉の本心は死ぬまで消えません。消すことも出来ません。しかしながら、その肉
の心もあるということを認めた上で、霊の本心に立って絶対主にウエイトを置くと
決めたらどうでしょうか? それが、私たちの偽らざる霊の本心に立った正しい決断
です。
絶対主は「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」と言われたのですから、後は、
私たちの心が霊の本心に立つか、肉の心に立つかを選択する心に懸かっています。
私たちの決断こそ、私たちの信仰そのものです。自分の心の願いの本心が何なのかを、
正直に見詰めて下さい。これ以上、あいまいにして行くのではなく、自分の心の願い
が何なのかを、はっきりと意識した生き方にチェンジして行きましょう。
(Yes we have a change)
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