絶対主と繋がる心とは、「遜(へりくだ)り」です。この遜りこそ、信者・未信者を
問わず、全ての人間にとって絶対主と繋がる重要な要素です。そして、キリストの救い
は人間の自力によるものではなく、キリストの贖いによる完全な他力本願ですから、
決して人が誇れる根拠は一つもありません。むしろ「遜り」が肝要です。また、キリス
トの身代わりの死が贖いの根拠であるなら、私たちの罪の代価は完全に払われていま
す。ですから、絶対主はキリストの故に、私たちの罪を問われないと言って下さるので
す。そこで重要なのは信じる者の「絶対主への遜りの心」だけです。
しかし、魔物の心を抱えた人間にとって、この「遜る」ことの難しさは、行いで受け
入れられようとする努力よりも難しいものです。なぜなら、人の心の中には、生まれな
がらに持つ性に、「自分を義人振ろうとする強い性質を持っている」からです。
人の心の奥底にある性は、人に対して「下手に出ることを嫌い」、「人から指摘さ
れるとひねくれ」、「自分を落とし切ることが出来ず」、「本能的にボスになろうと
する傲慢さ」を持っているのです。ですから、たとえ頭で「へり下る」ことが理解でき
ても、イザ本番になると、心の奥底の性が抵抗し、「へり下りの心」を嫌う本能が
出て、頑なになるのです。この頑な心こそ魔物の心です。
そこで、私たちは、自分で気付かずに出している魔物の心を見抜き、その魔物の心から
離れて止めるという定めが、絶対主と繋がるためには絶対に必要です。そうしなけ
れば、私たちの霊的な本心をいつまでも表すことが出来ません。救いに預かった者が、
自分の霊的な本心に立てないことこそ、悲しいことはありません。それはローマ書に
あるように、「私たちは自分のしていることが分かりません。なぜなら、私は自分の
したい事は行わず、かえって自分の憎むことを行っているからです」(ロマ7:15)
と、パウロさんが語っている苦悩の虜となってしまうからです。この心に対する解決
は、ガラテヤ書5章16〜17節にあります。「なぜなら、肉の願うところは御霊に
逆らい、また御霊の願うところは肉の性質に逆らうからです。こうして、二つのもの
は互いに相逆らい、その結果あなた方は 自分でしようと思うことができないので
す。」「そこで、私は命じます。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の
欲を満たすことはありません」と。即ち、私たちのすることは、本能的に御霊に逆らう
肉の思いを見抜き、御霊の示しによって、肉の思いから離れて、下手に出て「へり下り
の心」に自分の思いを変えて行くことです。これは、自分が嫌う肉の思いを退け、御霊
の助けによって「へり下りの心」に変えて行く作業です。これは重要なクリスチャンの
霊的な取り組みであり定めでもあります。ここに、自分の定めによる意思と御霊の助け
による御霊と自分自身の共同作業があるのです。決して一方だけの働きで出来るもので
はありません。それは互いに相逆らう性質だからです。そこで、自分の肉を嫌い、肉か
ら離れようとする決心は、御霊の助けによって絶対必要な決断です。そのために、御霊
の強力な促しの取り扱いが必要になります。それは、肉では出来ないことを、御霊
が成し遂げて下さるからです。だから、自分でしようとせず、御霊の取り扱いで決心
出来るように、研ぎ澄まされた心を持つべきです。御霊の促しを決して軽視してはいけ
ません。なぜなら、罪人が「遜り」なくして天の御国に上げて頂く資格はないからで
す。ただ「イエス様を信じました」という口先の決断に安住していてはいけません。
本当に「キリストを信じた」者であるなら、「本気でキリストに在って生きて行くは
ず」だからです。
このように、絶対主と繋がる心は、本物の「遜り」の心を表して行くことです。
どうか、魔物に騙され続けないよう、霊の目を覚まして絶対主に懸けて行く一本道を
大胆に始め出して行きましょう。
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