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2019年8月18日
全能主の栄光だけが表されることを願って

ヨハネの福音書12:20~33

(起)ヨハネの福音書12章23~25節の御言葉から、「自分の栄光ではなく、全能主の

栄光が表されることを願って」、全能主の御心の中で働かせて頂くことを学んで行きたいと

思います。


(承)さて、ある日、ギリシャ人たちがイエス様を訪ねてやって来ました。すると、イエス様

は、「人の子が栄光を受ける時が遂にやって来ました。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、

それは、ただ一粒のままです。しかし、もし死ねば、多くの実を結びます」と言われました。

それは、「一粒の麦として自分が死ぬ時が遂にやって来た」ということをイエス様が悟られ、

「自分の死によって多くの者たちが救われる」と預言をなさったということです。それが

何故、ギリシャ人の訪問の時であったのかと言うと、「わたしは、囲いの外にいる者たちも

導かなければならない」と言われていたからです(ヨハネ10:16)。すなわち、「ユダヤ

人のためだけでなく、全世界の人々の魂の贖いのために死ななければならない。その時が遂に

来た」というイエス様の心をここで表されたということです。しかし、
イエス様にとって、

「全世界の人々の魂の贖いのために死ぬ」という決断は、簡単なことではありませんでした。

なぜなら、イエス様は母マリヤの肉の性質を受け継いでおられたからです
確かに、聖書には

「マリヤは聖霊によって身ごもった」とありますが、
イエス様は現実にマリヤの卵子によって

胎内で組み立てられていたからです
確かに、胎児の血液と、母体の血液は混ざりません。

だからマリヤの罪の影響は受けなかったと言われる人もいます。しかし、
卵子はマリヤから

来ており、女の末として誕生しました
その為、ロマ書8:3では、「罪深い肉の姿を取って

遣わされ」とあります。ですから、マリヤの肉の影響を全く受けていないとは考えられま

せん。もし、イエス様がマリヤの肉の影響を全く受けていない完全無欠な聖なるお方だった

なら、十字架につかれる前のゲツセマネの園で、「この杯をわたしから取り除けて下さい」

などとは言われなかった筈です。あの言葉は、私たちが感じるのと同じ、「死に対する

恐怖心」から出た言葉です。もし完璧な聖なるお方だったら、そんな弱音を吐かれる筈が

ありません。だから、確かにイエス様はマリヤの肉の性質を持っておられたのは事実です。

しかし、その肉の恐怖心を持っていても、人のために死ぬことを拒否されたわけではありま

せん。それは、全能主の御心(律法)を完全に全うするために、マリヤの肉の影響によって

罪を犯すことがないように、聖霊の強力な助けによって守られていたからです。
だからこそ、

「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命

に至るでしょう」と言われたのです。
これは、イエス様ご自身が実際にそのようになさった

お方だからこそ、言われた言葉なのです。先ほども申し上げたように、イエス様はマリヤの

肉の性質を受け継いだことによって、「自分を保ちたい」という肉的な気持ちも持っておら

れました。しかし、その肉の思いも乗り超えて、私たち罪人のためにご自分の命を差し出し

て、罪人の贖い主となられたのです。その御蔭で、私たちは永遠の命を持って天に上げて

頂くことが許され、そこに全能主の栄光が表されたのです。イエス様は、自分の満足や自分

の栄光のためではなく、どこまでも全能主の栄光が表されることを願って、御自身の地上で

の生涯を全うされたのです。


(転)では、そのことが分かった時、私たちはどのように歩んで行けば良いのでしょうか。

それは、イエス様が歩まれたのと同じように、この世で人からどう思われようが、
全能主の

栄光が表されて行くことだけを願って生きて行くことです。
具体的に申し上げるなら、私たち

の教会は、今は目立った働きをしていません。しかし、全能主は「今はその方がいい」と考え

ておられるようです。何故かというと、今は、「この世界を自分たちの思い通りに治めて

行こうとする闇の計画が立てられており、その実現のためなら暗殺でも戦争でも何でもする」

という裏の組織がたくさん存在している時代だからです。そのような中で、今、私たちが

目立った働きを始めると、裏の組織から目をつけられて潰されてしまう恐れがあります。

だから、私たちが本当に働きを始め出すのは、患難時代の初めの「平和だ、安全だ」と言う

時代です。その時が来るまでは、私たちはあえて目立つ必要はないのです。だから、私たち

は、早く働きを始め出したいからと言って、自分たちの考えで突っ走ってはいけません。

私たちは、自分の栄光を表すために生きているのではなく、全能主の栄光が表されるために

生きているからです。そこを取り違えてはいけません。


(結)イエス様は、地上においては、人から馬鹿にされ、(さげす)まれて本当に惨めな生涯を

送られました。しかし、最後には 全能主の栄光が表されました。私たちも同じです。患難

時代の初めの「平和だ、安全だ」と言う時代が終わった後には、666の前に出され、殺され

て行きます。しかし、そこで全能主の栄光が表されるのです。すなわち、「死に至るまで

忠実であれ」とあるように、私たちが命を落とした後に信仰の証を666に突き付けること

が出来るからです。これが、私たちの地上での証の生涯です。

 どうか、このことを自覚しながら信仰を全うして行きましょう。私たちは、人に目立つ必要

はありません。
どこまでも、自分の栄光ではなく、全能主の栄光が表されることを願って、

全能主の御心の中で働きをさせて頂こうではありませんか。

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