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2019年8月11日
リスクを負う覚悟

ヨハネの福音書9:24~38

(起)ヨハネの福音書9章の生まれつきの盲人の癒しから、「リスクを負って全能主に懸けて

行く本気の信仰」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、ある日、生まれつきの盲人が癒されました。しかし、その日は安息日でしたので、

パリサイ人たちは、「盲人を癒した人物は、安息日を守っていないので、全能主から

出た人ではない」と決めつけ、癒した人物が誰であるのかと、根掘り葉掘り問いただして

きました。すると盲人は、「あの方がどういう方なのか、私には分かりません。ただ一つの

ことだけは分かります。私は生まれつき盲目であったのに、今は見えるということです」と

証言しました。しかし、パリサイ人は何度も盲人から色々と聞き出そうとし問いただして

来たので、盲人は、「全能主は罪人の言うことはお聞きになりませんが、全能主を敬い、

その御心を行う人の言うことは聞き入れて下さいます。もし、全能主から来た人でなかっ

たら、あの方は何一つできなかったはずです」(31~33節)と、はっきり答えました。

それは、「自分を癒して下さった方は、罪人ではなく、全能主から遣わされたお方です」と

証言したのです。すると、それを聞いたパリサイ人たちは、「お前は全く罪の中に生れて

いながら、私たちを教えようとするのか」と言って、彼を会堂から追放してしまいました。

当時のユダヤ人社会では、「イエスをキリストと告白する者は会堂から除名する」と決めら

れていたからです。(9:22)しかし、ユダヤ人にとって会堂から除名されるということ

は、「律法に逆らう者として異邦人の如くに扱う」ということを宣言され、全能主の呪いの

下に置かれることでした。すなわち、ユダヤ人としての居場所を失うことで、村八分(むらはちぶ)

されることです。しかし、盲人はそのことを知っていながら、決して自分の身を守ることを

せず、「自分を癒して下さった方は、全能主から遣わされた方であるとしか考えられません」

と、はっきり表明したのです。この表明は、自分を癒して下さった方を(かば)うことで、

「自分は会堂から追放されてしまうかもしれない」という大きなリスクを負うことです。

こうして盲人は、イエス様を悪者扱いせず、パリサイ人と渡り合ったのです。こういう人

をイエス様が放って置かれる訳がありません。


 なぜなら、イエス様こそが大きなリスクを負って罪人の贖いをしに来られたのに、ユダヤ人

の偽善な正義感のゆえに反感を受け、悪者扱いを受けておられたからです。ですから、この

盲人の勇気ある正しい主張を聞いたイエス様は、彼の所に来られ、「あなたは全能主の子を

信じますか。今あなたと話しているのがそれです」と言われ、彼は即座に「主よ。信じます」

と告白したのです。それは、会堂から追放されることでした。しかし、こういう盲人こそが

イエス様の羊であり、またイエス様の羊である人は、直感でイエス様が全能主から来られた

救い主である事を信じられるのです。こういう信仰の人を、全能主も見捨てるわけがありま

せん。この信仰に立つ人こそ、永遠の天の御国に繋がる本気の信仰なのです。


(転)このことは私たちにも言えることです。私たちこそが、多くの教会に来た者の中で、

イエス様を救い主として信じれた者だからです。それは、
霊的な直感が働き、イエス様こそ

が罪人の救い主だと分かったから
です。ですから、盲人が表明した本気の信仰は、私たちに

もある信仰の心です。そして、この信仰こそ、これから始まる患難時代では同じようなこと

が起こってくる事柄に耐えていけるのです。どういうことかと申しますと、
患難時代の中で、

もし私たちが「イエス・キリストを信じている」と告白すれば、私たちもすぐさま666の

前に引きずり出され、聖徒たちはこの世から追放されて行く
のです。ということは、私たち

にとってイエス・キリストを信じることは、この世にあっては御利益を受けるどころか、

逆に、
命を奪われるリスクを負うことになるからです。しかし、「イエス・キリストの救い

を信じ、全能主に懸けて行く一本道を通す」本気の心があるなら、イエス様が私たちを探し

出して、「あなたは全能主の子を信じますか」言って下さり、「私はあなたと共にいます」

と励まして下さるのです。ですから、私たちは信じるその証しとして、地上でのリスクは

負って行かなければなりません。「全能主に従って行きたいとは思う者は、この世から追放

される死を受け止めるのです。」しかし、地上でのリスクは負いたくないが、癒やしは受け

たい」という二兎を追うような信仰は、全能主に繋がりません。なぜなら、全能主は私たち

罪人を救うために、ご自分の御子の命を差し出すという、そこまでのことをやって下さった

からです。その救いを本気で必要とするなら、私たちも「死に至るまで忠実であれ」と

言われる信仰に立つべきです。どうか単なる御利益的な感覚で、保険のようなつもりで

「信じます」と言うことがありませんように。そんな信仰は、全能主に繋がりません。

「全能主に懸けて行く」という信仰と、「苦しい目に遭いたくない」という肉の心を抱えな

がら、どっちに転んでも損をしないような二股を掛け、ほどほどに信じて行こうとする、

そんな曖昧な信仰を全能主が受け入れられる筈がないからです。全能主は、本気でご自分の

御子の命を懸けて、私たちを救おうとして下さったのです。ならば、私たちも本気で命を

懸けてその救いを受け取るべきです。


(結)イエス様に癒された盲人は、自分に降りかかるリスクを大胆に受け止めて、「主よ。

信じます」と告白しました。
私たちも、本気でイエス・キリストの救いを信じて、本気で

リスクを負って行くのかどうかで決まります。それは他人が決めるのではなく、自分自身が

決めるのです。どうか、
「自分にとって必要なものは地上の御利益ではなく、天に繋がる

永遠の救いだ」と告白していきましょう。
曖昧な信仰はこの世でも通用しません。ならば、

リスクを負って全能主に懸けて行く本気の信仰を始め出そうではありませんか。


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