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2019年12月15日
『自分の弱さを認めて

エペソ人への手紙6:10~18


(起)「絶対主の前に無条件降伏し、自分の弱さを認めた中で遜って、どこまでも絶対主に仕え

て行く」ことを学んで行きたいと思います。


(承) さて、12節を見ますと、「私たちの戦いは、血肉に対するものではない」とあり

ますが、他の箇所を見ると、「絶対主にならう者になりなさい」(エペソ5:1)とか、

「あなた方を召して下さった聖なる方にならって、あなた方自身も、あらゆる振る舞いにおい

て聖なる者とされなさい」(第Ⅰペテロ1:5)とあります。このような箇所を見ると、

「自分の行いを聖いものにしなければならない」という思いに駆られて行きます。しかし、

生まれながらの罪人にとって「あらゆる振る舞いにおいて聖なる者になる」ということは、

到底無理です。なぜなら、私たちの心の中には魔物が住んでおり、生まれながらに罪の中に

あった者です。ですから、たとえ救われた者であっても、「絶対主にならう者になる」という

事は不可能なことです。


(転) ところが、ここでパウロが語っている「絶対主にならう者になれ」というのは、

「罪のない聖い人間になれ」という意味ではありません。私たちの罪は天に行くまで消え去り

ません。ですから、
この地上で絶対主にならう者とは、「悔いし砕かれた心を持ちなさい」

という意味です。
実は、悔いし砕かれた心こそ、絶対主が持っておられる聖なる心です。どう

いうことかと申しますと、確かに絶対主は全知全能のお方で、全てのものの上におられる絶対的

なお方ですが、(まこと)の悔いし砕かれた心を持っておられる方であるからこそ、罪に下った

人間でさえ、あえて御子を十字架に付けるまでして、私たちを天に引き挙げようとして下さった

お方です。ですから、むしろ
私たちの方が「間違っていました」と無条件に降伏の心を表し、

絶対主の前に遜るべきです。
もし、私たちが完全に遜るならば、絶対主は憐れみの心を持って

その者を受け入れ、その者の所まで下りて来さる方です。絶対主は、何でもかんでも上に立っ

て、一方的に語られるお方ではありません。その
真の悔いし砕かれた心を、絶対主は軽んじない

とあります。(5117) だからこそ、私たちにも救いがあるのです。この絶対主こそが聖な

のです。パウロは、「その部分を習いなさい」と語っているのです。ところが、
悔いし砕かれた

心を否定し、馬鹿にするのはルシファー
です。ルシファーは、私たちが自分の過ちを認め、

無条件に降伏するのを妨げます。その手口は、「自分が悪かったと認めたって、結局は自分自身

が惨めな思いをするだけだ。そんな心で競争社会では生きていけない」とばかりに、私たちに

()き付けて来ます。そして、私たちの感情に働き、罪人が絶対主に対して無条件に降伏する

ことを妨げ、遜り、砕くことを馬鹿にして、反抗心の虜にするのです。このルシファーの策略に

よって、私たちはいつも遜る世界に入ることを留められて来ました。しかし、私たちはそこを

乗り越え、絶対主の前に無条件に降伏の心を持つべきです。すなわち、「自分は本当に惨めで、

罪の性質から起き上がることが出来ない、どうにもならない者です」という正直な事実を、自分

自身が認めることです。無条件降伏というのは、人間にとって一番嫌なことであり、屈辱的な

ことです。しかし、それが本当の自分の姿だということを、正直に認めるなら、絶対主は「それ

でいい」と言って、そこから私たちを引き上げて下さるのです。そして、その悔いし砕かれた心

を持った者に対して、
絶対主も信頼して心を開いて下さりそこに悔いし砕かれた心で繋がった

絶対主との交わりが生まれて来るのです。


(結) これは、たった一度やればいいという問題ではなく、生涯続けて行くことです。

なぜなら、私たちの感情は死ぬまでなくならないからです。ルシファーは常に私たちの感情に

働いて傲慢にし、隙あらば絶対主との繋がりを断とうとしてきます。ですから、私たちはその

ルシファーの策略を見抜き、度毎に「自分が悪かった」と認める遜りの中に、あえて入って行く

のです。それが罪を犯した人間の無条件降伏の生き方です。その世界に入った時に、私たちは

「絶対主にならう者」となるでしょう。人間は、自分自身の惨めさを認めて謝るしかありま

せん。そして、自分自身の弱さを認めた中で、遜って、成すべきことをして行くのです。

「自分は弱いから」と言って、ただ逃げて行くのは未信者と同じです。私たちは確かに弱い

人間ですが、その弱さに逃げて行くのではなく、イエス様にあって、絶対主の前に成すべき事

をして行くのです。これが本当の遜りであり、絶対主に繋がる心です。どうか、絶対主の前に

無条件降伏し、自分の弱さを認めた中で遜って、どこまでも絶対主に仕えて行こうではありま

せんか。


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