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2019年12月1日
全能主に乗っかかった信仰の在り方

使徒の働き24:10~23


(起) 使徒行伝24章、25章を通して、どんな問題も全能主の前に持って行き、全能主に

あって解決して行くという、「全能主に乗っかった信仰の在り方」を学びたいと思います。

(承)さて、24章は、パウロがエルサレムで捕えられた後、カイザリヤにいる総督ペリクス

の前で弁明をする証の場面ですが、これは、私たちクリスチャンも、全能主を信じる信仰に

基づいて患難時代を通って行く時、同じような 経験をする場面です。それは、高い地位にある

方に対して証しをする時に、相手がいくら地位の高い方であろうが、「この世の権威にペコペコ

頭を下げるようなことはしたくない」と思ってしまいます。そんな時、パウロが当時の支配者

に対して、どのように接したのか見て行きたいと思います。まず、彼は「私は全能主に対して

も、また人に対しても、責められるところのない良心を保つようにと、いつも最善を尽くして

きました」(24:16)と、はっきり語りました。パウロは「自分はどんな場合でも全能主

に懸けてきました。この命を全能主の使命に基づいて使い 尽くして来ました。だから、何も

思い残すことはありません」というような言い方をしています。私たちはここを読むと、

「やっぱりパウロさんは立派な人だ。一つも世に()びへつらうことなく、毅然(きぜん)と信仰に

立って証しをしている。」だから、私たちもパウロさんのように、世に()びず、毅然(きぜん)

信仰に立って生きて行かなければならないと思うのです。


(転)ところが、パウロはそのように言いながらも、実は人間的な部分も上手に利用してい

ます。例えば、25章で総督がフェストに替わったとき、フェストはパウロを釈放しようと

考えていました。ですから、もしパウロが「カイザルに上訴する」と言わなければ、パウロは

釈放されて自由の身にされてローマに行くことができたかもしれません。それなのに、何故わざ

わざ「カイザルに上訴します」と言ったのでしょうか。
カイザルに上訴するということは、

未信者の権威者に助けを求めたということになります
私たちなら、「そんな逃げるような

ことは考えず、正々堂々とカイザリヤからエルサレムに戻り、ユダヤ人の祭司長たちの前で

裁判を受けて、そこで決着をつけるべきだ」と思ってしまいますが、それは、私たちにとって

他人事ですから、簡単に何でも言えます。しかし、パウロさんにとって エルサレムに戻れば、

彼を殺そうとする刺客が大勢待ち受けていましたから、パウロは直感で「今エルサレムに戻れ

ば殺される。自分はローマにも行かなくてはならないし、それが主の御心だから、ローマ市民

の権利を使ってカイザルに上訴してやれ」と思ったのも当然でしょう。この判断は、この後

結果オーライでしたが、かなり海上の難を通らねばなりませんでした。しかし、彼は囚人として

ローマに護送されたことによって、自分を殺そうとする刺客から守られ、旅費も何もかも全て

無料でローマまで行けたのです。そこには相当な資金が使われていたに違いありませんが、

パウロはそれに対してお金を払ってはいません。このようにして、パウロも時には地上の事柄

上手(じょうず)に利用して、上手(うま)いことやりました。それもそのはず、聖書の中には「不正の

富をもって友をつくりなさい」(ルカ16:9)という御言葉があるように、たとえこの世の

富を使おうが、世的な方法手段を使おうが、全能主の御心を行っていくことに繋がるならば、

「それで良し」だとあります。それは、私たちにとっても言えることです。私たちが地上で

生きている限り、この世では多くのストレスや不平不満が出てきます。しかし、それを全能主

に対して()つけることを、全能主は罪だとは言われません。なぜなら、「たとえイエス・

キリストの救いを頂いた者であっても、この地上にあっては、忌々(いまいま)しい  肉を抱え込ん

でいる」という私たちの現実を全能主はご存知だからです。ですから、全能主は「イエス・

キリストに繋がってさえいれば、この世のことなんて、いくらでも利用してもいい」、

「ストレスや不平不満も思いっきり()つけたらいい」と言って下さるのです。ただし、

それは全能主にあってすることであって、全能主から離れて、世に対してストレスを発散する

ことは、悪魔の餌食になりますから、注意する必要があります。


(結)こうして、私たちはすべての問題を、常に全能主に持って行き、どこまでも全能主の

中で勝負して行くべきです。それがたとえ世的な問題であっても、全能主に持って行くべき

です。言葉を換えると、
「全能主に乗っかって行く」ということです。そして、全能主の前に

悔い改めるべきことは悔い改め、「こうしなさい」と言われたことはその通りして行くのです。

これが、全能主に懸け、全能主に乗っかった私たちクリスチャンの生き方です。私たちは、

この世にいるとつい、「周りからどう思われるか」、「周りからどういう評価をされるか」と

いうことが気になってしまい、それで自分自身が雁字搦(がんじがら)になってしまいます。

 すると、この世ばかりに心が向かい、悪魔と結びつき、最終的には全能主から離れてしまう

ことになりかねません。ですから、むしろ、私たちはこの世のことも全て「全能主と繋がって

いるなら、この世のことも全能主に乗っかって問題を解決して貰うのです。この考えに立てば、

自分で「ああだこうだ」と考えなくても、「全部全能主に委ねて、全能主に乗っかって行けば

いいのだ」ということが見えてきます。どうか、律法から解放された者として、どこまでも

全能主に乗っかり、全能主を第一にして行こうではありませんか。これが、これからの集大成

に使われて行く私たち一人一人の信仰の生き方です。


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