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2019年10月27日
駄目な自分を棚上げにして、全能主に頼って行く

使徒の働き2:31~47


(起)「罪を犯す、駄目な弱い自分を棚上げにして、『全能主に頼って行く』と切り替えて

行く信仰のあり方」について学んで行きたいと思います。


(承) さて、今お読みした御言葉の中には、ダビデの預言の言葉が記されています。

ダビデはキリストの復活を預言し、「彼は黄泉に捨てられず、またその肉体が朽ち果てること

がない」と語りました。そして、その預言のとおりに、全能主がイエス様を甦らせました。

そして、ペテロはそのことを踏まえて、「ヤハウェなる全能主が言われた言葉は、その通り

なる。それが今、実際にその通りなったのです」ということを語り出したのです。そして、

「ヤハウェなる全能主が、イエス様を救い主としてお立てになったのだ」という福音を伝え

ました。今日(こんにち)、私たちもその福音を聞き、イエス・キリストを救い主として信じました。

しかし、その「福音を聞いた」と言っても、ペテロから直接聞いたわけではなく、キリストの

十字架を実際に見たわけでもありません。しかし、聖書に書いてあることは真実であると受け

止めたが故に、私たちはそれを信じて、クリスチャンになったのです。ならば、
信じたあとの

歩みも、聖書の言葉をそのまま信じた信仰のあり方こそが正しい
のです。すなわち、全能主を

そのまま信頼して行くのがクリスチャンの歩み方です。


(転) しかし、地上でその生き方をするのは、仙人のような生き方です。なぜなら、キリスト

の救いを現実のものとして味わうのは、御国にあげられた時だからです。それまでの間、
現実に

命閉じる時までは、この罪深い肉の体を持ちながら、ただの肉の人として生き続けなければ

なりません。
なぜなら、キリストの救いは、すべてアオリスト形で語られている真理だから

です。アオリスト形とは、現在の状況が如何なる状態であっても、救いはすでに過去に実現し

ているものとして記している時制を表すものです。たとえば、「キリストと共に死んだ」と言う

時、たとえ今死んでいなくても、
現在の状況如何に関わらず、「すでにキリストと共に死んだ

者」と見なされている
のが、聖書の示す真理です。それは、キリストの救いが、過去に起こった

実際の贖いの事実だからです。ですから、たとえ今現在罪から解放されていなくても、キリスト

のおかげで罪から解放されている事実をそのまま信じるのがクリスチャンの生き方なのです。

これは言葉を換えると、「自分の罪を棚上げにしていい」ということです。確かに、私たちの

今現在の状況は、罪を犯す人間、弱い人間、ダメな人間です。しかし、現在の状況如何にかか

わらず、私たちはキリストの救いに預かっている者として、自分の罪を棚上げしていいのです。

ただし、問題はそのあとです。棚上げしたことによって自分の気持ちが軽くなったからといっ

て、「放縦な生活」をして良いと言う訳ではありません。また「自分に頼ってやって行く」と

いうことではありません。これは間違っています。
自分の罪を棚上げした後は、自分に頼るの

ではなく、全能主に頼って行く
のでなければいけません。この切り替えなしで、ただ罪を棚上げ

するのは間違っています。

 実は、それを正しく為さったのがイエス様です。イエス様は、マリヤの肉(女の末として)を担われ

ましたが、肉から離れて全能主の御心に従われました。十字架につく前のゲッセマネの園では、

悲しみ、苦しみ、死にたいと思うほどの気持ちを持って祈られました。それ程の辛い気持ちを

味わわれたのです。ところが、イエス様は三回の祈りを通してその肉の気持ちを棚上げにして、

立ち上がられました。そして、「父の御心のままになさって下さい」と言って、気持ちを切り

替えられたのです。私たちも同じことをして行くのです。

 私たちは罪も犯します。また弱さを持っています。しかし、それらをイエス・キリストの贖い

の故に、棚に上げるのです。そして、
「自分の肉の思いから離れて、全能主に懸けて行く」

切り替えて行くのです。これが信じた者の生き方です。なぜなら、いくら自分の肉を見て悩んだ

って、そこに答えは出てきません。そんなものは棚上げして、全能主に頼っていくのです。

先程も申し上げたように、これは仙人のような生き方です。私たちは現実に全能主もイエス様

も目には見えません。それでも尚、そのお方に信頼して懸けて行くのですから、この生き方は

「狂信的」と言われるかもしれません。でも、はっきり言ってクリスチャンは狂信者です。

目に見えない全能主を信頼するのですから、そのことを誰が理解してくれるでしょうか。

世間ではバカにされ、悪魔からも、「そんなもの通用するか。お前は狂信者か」と言われる

でしょう。しかし、その時は
「私はその方を信じたのです。だから、たとえ狂信者と言われ

ようが、目に見えないお方を信じて、生きた信仰に立って行きます。」
と言えばいいのです。

この信仰告白に立って()かなければ、全能主を信頼し懸けて行くという信仰は、いつまで

経っても始まりません。


(結) こういうわけですから、私たちは、弱い自分、ダメな自分を棚に上げて良いのです。

棚に上げて、初めて私たちの心は「全能主に信頼して行く」と切り替わるのです。だから、

私たちは、自分を見て、自分を信頼して何ができるのでしょうか。私たちは、自分に頼って

救いを得たのではなく、全能主がイエス様によって()って下さった贖いを、ただ信じた

だけです。ならば、生き方においてもそうして行くべきではないでしょうか。私たちは、自分

自身を見ればただの罪人に過ぎませんが、その罪人のためにイエス様の贖いがあり、その贖い

の故に、
「お前はもう罪に対しては死んだのだ」と言われているのですから、自分の肉の弱さ

から離れ、全能主を信頼する方向に心を切り替えて行きましょう。
どうか、自分の()って立つ

所はここだと確信して下さい。私たちはただ全能主を信じ、全能主に懸けて行く狂信者でいい

のです。自分の弱さ、ダメな自分、罪を犯す自分を戒めても、変わらないのが現実です。

だから、そんな自分でも贖いを受けたのですから、「ただ全能主に頼って行くのだ」と心を

切り替えて、前に進み出しましょう。


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