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2019年11月3日
願望は苦き胆汁

使徒の働き8:9~25


(起)使徒の働き8章の、魔術師シモンについて記されている箇所から、「『強い自分になり

たい』という願望は、私たちの未信者時代に持っていた願いで、クリスチャンにとっては

間違った苦い胆汁であり、不義の鎖である」と いうことを学び、そこから離れて、「ただ

キリストの栄光のために働かせて頂きたい」という心に替えて行くことを学んで行きたいと

思います。

(承)さて、サマリヤの町には、魔術師のシモンという男がおり、人々の前で色々な魔術を

行って、自分こそ偉大な者だと言いふらしていました。また、サマリヤ人も「この人は『大能』

と呼ばれる神の力だ」と言って彼を(たっと)んでいたのです。そんな中、このサマリヤの町に

ピリポが来て、キリストを宣べ伝えていました。すると、多くの人々がキリストを 信じ、

魔術師シモンも信じてバプテスマを受けたのです。ところが、彼らにはまだ聖霊が下っていな

かったので、エルサレムにいた使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わし、サマリヤ人

の為に祈るように遣わしました。すると、サマリヤ人は次々に聖霊を受けたのです。その様子

を見ていたシモンは、「自分も人々に聖霊を与えることが出来るよう、その権威をください」

と言って、使徒たちの所にお金を持って行来ました。すると、ペテロは激昂し、「あなたは、

まだ苦い胆汁と、不義の鎖の中にいる」、「あなたは金で全能主の賜物が得られると思って

いるのか」と叱り飛ばしたのです。シモンは罪を悔いて信じたにも拘わらず、なお「自分は

魔術師として、ますます力を付けて、権威者となりたい」という願望を、信じてからもな

お持ち続けていたのでした。逆に言えば、それが彼の信じる理由だったのかも知れません。

すなわち、彼は自分自身の願望を満たすためにイエス・キリストを信じたということです。

それがシモンの苦い胆汁であり、不義の鎖であるとペテロは見抜きました。

(転)しかしながら、シモンが持っていた苦い胆汁、不義の器は、未だに私たちも抱いて

いるものです。どういうことかと申しますと、私たちは生まれながらに自分自身の駄目さ加減

を知っており、弱さを抱え込んでいます。ですから、私たちは「そういう弱さから解放され

たい。強い人間になって、自信を持って生きて行きたい」という強い願望を持ってイエス様

を信じた(ふし)(怪しい点)があります。そして、今もなおその願望を持ち続けているのです。

しかし、
これは私たちの苦い胆汁であり、不義の器です何故かと言いますと、人間は罪人で

あり、信じてからも救われた罪人にすぎません。キリストを信じたら、肉の性質が変わると

いう訳ではありません。なのに、その願望があるが故に、私たちはいつも背伸びをして、弱い

自分を強く見せかけようと虚栄を張り、如何にも良い人間であるかのように見栄を張っている

からです。そして、結局は自分の力で何とかしようと、自分に頼るという方向に向かっている

のです。しかし、そんな生き方は間違っています。私たちの本当の姿というのは、弱くて、

臆病で、いつも自信のない人間です。そんな自分を「変えたい」、「変わりたい」といくら

願ったとしても、この罪深い肉は死ぬまで変わりません。また、罪が消えて無くなる訳でも

ありません。しかし、そんな中で、私たちは全能主に出会い、こんな自分のためにイエス・

キリストの贖いがあることを知ったのです。ならば、「確かに自分はどうしようもない罪人

なのですが、そんな自分のためにイエス様の贖いがあるとすれば、これからは、どうしよう

もない自分から離れて、イエス様の贖いの中で生きて行こう」という他力本願の道が与えら

れたのです。私たちにはこの道しかなかった筈です。それなのに、何故そこから離れてしま

うのかというと、
未信者時代に持っていた、「強い自分になりたい」という願望が消え去っ

ていないからです。また、その苦い胆汁がずっと心の中に留まり続けていたからです。


しかしながら、私たちは自分の願望を満たすためにイエス様を信じたのではありません。

もし罪人の私たちが自分の願望を満たされ続けて行ったら、私たちは傲慢になるだけです。

そして、ルシファーの元に行くだけです。それなら、むしろ弱いままの方がましです。


全能主の前に、私たちは罪人の自分しかありません。しかし、そのことを理解した上で、

私たちは全能主に信頼し、全能主の栄光のために生きて行くのです。その時に、自分の苦手な

分野がいくらでも出てきます。しかしそこで、「自分はこれが出来ます。でもこれは出来ま

せん」なんて自我を主張するのではなく、ダメな自分、自信のない自分だからこそ、全能主を

見上げ、全能主にあって努力して行くのです。そのようにして、「主のために何でもやり

ます」という心を持ってやって行くのが、全能主の御心に適った正しい信仰です。そんな

私たちに、時には全能主が、私たちが全く発想もしなかったようなことを教えて下さり、結果

を出させて下さることがあります。


(結)こういうわけですから、私たちは「弱い自分自身が変わらなければ全能主に心を

向けて行くことが出来ない」と考えるのは間違っています。それは、「強い自分になりたい」

という、未信者時代の身勝手な願望を今もなお引きずっていることです。全能主は「私たちが

強い人間になれば用いて下さる」というのではありません。弱い人間だからこそ、そこに絶対

主の恵みが満ちあふれるのです。ですから、「強くなりたい」と見栄を張る願望は、私たちの

身勝手な苦い胆汁であり、不義の鎖であることを悟りましょう。そして、弱い自分でもイエス

様の贖いによって救われ、用いて頂けるなら、喜んでこの身を献げて行こうという思いに

切り替えて行くのです。これが、キリストの栄光のために働かせて頂こうとする心なのです。


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