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2019年10月20日

信仰は、自分の肉の我を砕くところから始まる

マタイの福音書27:27~31


(起)「責められたくないという思い」から、人の言葉を退ける「排他(はいた)的な思い」が出てくる

心を砕いて、全能主に本気で賭けて行く歩みを、学んで行きたいと思います。


(承) さて、イエス様は捕えられてから十字架につけられるまでの間に、祭司長たちから

次々と尋問を受けました。しかし、イエス様はたった一言お答えになられただけで、後は

どんなに不利な証言をされても黙っておられました。また、総督ピラトの前でも、一切弁明さ

れず、なされるままにご自身をお任せになり、苦しみから逃れようとはされませんでした。

そして、十字架に引き渡された後、いばらの冠を被せられ、唾を吐きかけられ、あしの棒で頭

を叩かれ、散々馬鹿にされても、じっと耐えて、最後の最後までご自分の命を全能主に明け

渡して行かれました。何故、イエス様はこんな潔さをお持ちになったのでしょうか。それは、

マリヤの肉の影響を一切受けずに誕生された聖なる完全なお方だったからでしょうか。

いいえ、決してそうではありません。イエス様は確かにマリヤから誕生され、マリヤの肉を

担われた方です。ある人たちは、「マリヤはただお腹を貸しただけで、マリヤの卵子は使われ

ていない。聖霊によって外側から受精卵が入れられ、完全な聖なるお方としてイエス様は

お生まれになったのだ」と言います。しかし、もしイエス様がマリヤの肉の影響を一切受けて

おられなかったとしたら、人とは一切関わりなく、ただ人間の顔をした男子として産まれただ

けとなり、罪深い
エバの女の末として生まれるという預言が、成就しなかったことになります。

また、ロマ書8:3節では、「罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を

処罰されたのです」とあります。なのに、もし肉を担われなかったのなら、あのゲッセマネの

園での未練がましい祈りもされなかったはずです。26章37節を見ますと、「イエスは

悲しみ、苦しみもだえ始められた」とあり、38節には、「わたしは悲しみのあまり死ぬほど

です」とあります。こうしてイエス様が人間の肉の性質を担っておられたからこそ、人と同じ

ような心で「もし、できることなら、どうかこの杯を私から過ぎ去らせて下さい」と叫ばれた

のです。人間なら、誰でも死ぬことは怖いのです。しかし、イエス様が肉を担われず、甦るこ

とを知っておられた全能主の子なら、こんな往生際の悪い死に方はされなかったはずです。

これは、まさに人間の肉を担われた方が、死に際に恐れを抱かれた心の表れです。ということ

は、確かにイエス様は私たちと同じ、マリヤから肉の性質を担っておられたということです。

しかし、そこでイエス様はどうなさったのかというと、その肉の思いを砕き、「あなたの御心の

ままになさって下さい」と、父に従われたのです。だから、イエス様は、「罪を犯されませんで

した」と御言葉にあるのです。これほどの中を通って、「罪人の身代わりとなり、罪の代価を

払って下さった贖い」だったのです。ですから、私たちにとって、これほどまでの贖いによって

罪人が救いに預かれるということは、ただ々感謝な事です。この事のためにイエス様は、ゲッセ

マネの園で、死ぬほどの祈りによって心を定められ、祭司長やピラトの前で一切の弁解もされ

ず、ただ黙って十字架に向かわれたのです。


(転) では、こんな凄い救いを頂いた私たちはどうあるべきでしょうか。私たちの心の中に

は、逆に「辱めを受けたくない」、「苦しみは嫌だ」という思いがしっかりと、心の中にしこ

りとなって留まっています。それほど私たちは、自分勝手な御利益だけを求めて信じて来た者

なのです。しかも、自分を責める者に対しては容赦なく排除しようとする強い我を持っているの

です。そして、救われた者だと言いながら、なお、自分を守ろうとする強い我を温存している

のは何故でしょう。本来は、信じた時に自分は罪人であることを示され、それでも贖いがある

ならば、「自分は罪人だから、これは一生涯背負って行くのは当然だ。だから、罪人であると

いうことの苦しみから逃れようと考えること自体が間違っている」と知り、初めてイエス様の

救いが自分の全てだとなって行くはずです。そして、自分自身の内側にある、「責められたく

ない」、「辱めを受けたくない」という心を砕き、
むしろ自分が罪人であることを認め切って、

「自分は責められても否定されても当然だ」という心を持った者だけが、イエス様の贖いの中

に生きて行くようになるのです。
それなのに「責められたくない」という心を持ち続けるなら、

キリストの贖いを信じたことになりません。その我を砕かなければ、永遠に全能主と繋がること

はありません。どこまでも自分の我を主張して行くなら、自分の思いを通し続けるユダと同じ

になってしまいます。


(結) 人間と同じ罪深い肉を担われたイエス様は、その肉の思いを砕いて、真摯に罪人の

贖い主になられたのです。ならば、私たちも真摯に自分の肉を砕いて、心を替えていかなけれ

ば、イエス様の身代わりの死を喜べないし、イエス様の贖いと繋がりません。
私たちの救いは、

自分自身の肉を砕いたところから始まるのです。
だから、自分自身が責められているその時に

砕くべきです。
すなわち、言われていることを、「本当にその通りです。自分が間違っていま

した」と悔い、心を替えていくなら、私たちの救いはそこで実現します。なぜなら、全能主が、

「それでいい。あとは問わない」と言って下さるからです。私たちは、このように心を砕いて

初めてイエス様の贖いに繋がり、そこから全能主に本気で賭けて行く歩みが始まって行きます。

 どうか、「全能主の御心のままに為さって下さい」という心を持って、全能主に本気で賭けて

行く歩みを始め出しましょう。


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