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2018年 NO.646 |
祈り会で牧師の祈りから始まって、続けて「アーメン」の連呼が出されていました。 しかし、突然アーメンの応答のない祈りに変わってしまいました。いったいその原因は、 どこにあるのでしょうか? まず、アーメンの応答がされる時には、聞く者たちの心の中に内住の御霊の反応が起こり、 霊の感動から「アーメン」という同意の心が自発的に出されて来ます。ところが、突然 「アーメン」の同意が起こらなくなるのです。何故でしょうか? 祈られている言葉そのもの は、同じ内容のものであったはずですが、アーメンの同意は起こって来ません。それは、当然 祈っている者に問題があったからです。祈りの言葉の内容が同じであっても、祈っている者の 心が伝わってこなかったからです。ですから、祈りというものは美辞麗句ではありません。 また、人に聞かせるためのものではありません。ということは、たとえ拙い祈りの 言葉であっても、また霊のうめきの言葉であっても、「砕かれた悔いし心」から出た祈りで あるなら、自然に皆の者にアーメンの同意が生まれてくるのです。では、その人の祈りに どんな問題があったのかと言えば、祈る人に、「砕かれた心」がなかったのが原因だという ことです。 「砕かれた祈り」は、単なる反省から出た頭の言葉ではなく御霊のことばで祈ることです。 また、「砕かれた心」とは、「自分が」という思いから離れて、「絶対主が第一だ」という 考えに変わることです。その心の切替がなされないままで、「自分」という意識の中で祈って も、それは自分の熱心さを押し付けるだけの祈りになってしまいます。絶対主は、人から押し 付けられるのを一番嫌われます。ですから、たとえ絶対主への熱心さで祈っても、その人の 押し付けがましい心から出た祈りには、アーメンは出て来ません。 ですから、押し付けがましい心が、退けられていないと御霊の祈りにはなりません。 人は、罪人ですから、人に押し付けるだけの強い確信は持てないはずです。ということは、 常に「へり下って」、引いて話す心が大切です。特に、絶対主に向かって祈る時、罪人は自分 を根拠に置いた心で祈ってはなりません。いくら自分が定めた心を抱いたとしても、それを 実現する力は罪人の自分にはありません。しかし、自分の定めた心を持つと、「自分でして 行こう」という思いが先立つのです。むしろ、「絶対主にあってさせて頂きたいのです」 という、「へり下った心」によらなければ、絶対主に聞いてもらえないのです。絶対主に 対する祈りは、相手が大殿ですから、「下臣」は、下手に出るのは当然のことです。 この下手に出た祈りは、御霊によって祈るところに現れます。それが、アーメンの奥義です。 御霊による祈りは、祈る前に、御霊に祈りのことばを下さいというところから始まります。 この心の意識をはっきり持って祈り出しましょう。 |
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