ごう
『罪人であると認め切れないクリスチャンの業』
|
イエス・キリストの救いは、「罪人が罪人である」と、認めるところに入口があり
ます。ですから、信じる時は皆、自分が生まれながらの罪人だと認めて悔い改め、
「キリストの救いが必要です」と叫んで信じるのです。ところが、聖書を読み始め
出すと、「罪人ではいけない」という思いに駆られます。なぜなら、聖書に
「主よ、主よと言う者が皆、天の御国に入るのではありません。ただ、天におられる
わたしの父の御旨を行う者だけが入るのです」(マタイ7:21)とあり、
クリスチャンになると誰でも「イエス様の言われたように、正しい行いをしていかね
ばならない」と思うようになるからです。しかしながら、生まれながら罪人であった者
が、イエス様を信じて救われた後でも、この地上で生きている限り、自分の内には魔物
がいますので、なお魔物の影響を受けるという現実があります。ということは、キリ
ストを信じたからといって、この地上にいる限り、私たちは正しい行いをしたいと
思っても、出来ないのです。そこに魔物は働き続けるからです。すると、「罪人のまま
ではいけない」と思いつつも、イエス様の言われたように「右の目が罪を犯させる
なら、それをえぐり出して捨てなさい」と言われれば、五体の全てを失うことになり
ます。「五体の 一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなた
にとって良いからです」(マタイ5:29)。と言われても、できないものはできま
せん。すると、ただ真底罪人であることを認めるしかありません。ということは、クリ
スチャンは信じただけの罪人にすぎず、私たちは、御言葉の通り生きて行けない罪人で
あることを思い知らされるのです。
すると今度は、「イエス様の戒めを守らなくて、天に行けるのですか」と、不安に
なります。答えは、使徒行伝13章39節にあります。「モーセの律法では義とされる
ことのできなかった全ての事について、信じる者は誰でも、このイエスによって義と
されるのです」とあります。なぜなら、行いでは義と認められない者が、イエス・キリ
ストの贖いが根拠で、罪の裁きから除外されるからです。それは「キリストが、すべて
の人の贖いの代価として、御自身をささげて下さった」(Tテモテ2:6)、からで
す。すなわち、「人は、自分で自分の罪を償っていないので、決して義人振ることは
できない」ということです。だから、人は生まれながらの罪人ですが、「私の罪の
償いがキリストによって為された」という贖いの根拠の故に、約束通り罪の裁きから
除外され、恵みで天に迎えて頂けるのです。これが救いです。
ならば、私たちは、「自分が生まれながらに罪人です」とへり下るのみです。それ
なのに、もし自分は罪人のままであってはならないと思い、罪を犯している自分なの
に、「きよい者のように見せ掛けたり」、救われたのだから、「罪人であってはいけな
い」と良い子振って、形だけの悔い改めで終わらせるなら、偽善者振ることです。すな
わち、クリスチャンになってから、「罪人である自分を嫌がったり、罪を指摘されて
反発し、不満を表す」のは、罪人としての自分を認めず、義人であろうとする偽善者
です。ならば、イエス様の贖いは、関わりのないことになり、そういう人は、天に
繋がることはありません。どこまでも、「罪人として認めることを嫌がる人」は、
異邦人と同じ扱いを受けます。
クリスチャンとなったなら、自分の内にいる魔物を認めて、一生涯罪人であることを
へり下って認めていくべきです。たとえ、絶対主から義と認められたとしても、自分は
償いをしていないのですから、自分を義人扱いしてはいけません。命閉じる時まで、
自分の罪の肉には魔物がいることを認めて行きましょう。それが救われた者のへり
下りの心です。
|