愛は、自己否定のへり下りの心を持ちます。ですから、自分が罪人だと自覚できなければ、
自己否定はできず、愛の心も持てません。すなわち、「愛」はロマンチックな言葉ですが、
実際は抽象的(現実から離れて具体性に欠けている)であるため、愛の言葉だけが一人歩き
して具体性に欠け、何が本当の愛であるのか分からなくなります。しかし、イエス・キリスト
は、その愛を具体的に現して下さいました。それは「わたしがあなた方を愛したように、
あなた方も互いに愛し合いなさい。人が、その友のために自分の命を捨てるということ
程に、大きな愛はありません」(ヨハネ15:13)と言われました。この御言葉の通り、
自己否定の心こそが、愛の土台です。それをパウロは、コリントの手紙の中で、「山を移す
ほどの強い信仰や、全財産を人に施したとしても、また、自分が焼かれるために命を渡しても
(殉教しても)、愛がなければ何の益にもなりません」(Tコリント15:2〜3)と言いま
した。それは、表面的な博愛精神を形で示しても、その心の土台に自己否定の心がなければ、
「何の益もない」ということです。すなわち、愛の精神の土台は、「自分が罪人であるという
自覚をはっきり抱いていることによって、自己否定の心が生まれ、その心を土台とする行為と
して、愛が表わされるのです。」
Tコリント13章の愛の定義は、行いではなく、人の心の姿勢を表現している内容です。
しかし、その心の姿勢をただ言葉の上で追いかけても、律法主義の見せ掛けになります。
ということは、「まず、罪人であるというへり下った心の土台を持ち、その上で行う行為で
あるなら、全て愛の行為になる」ということです。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを
臨み、すべてを耐える」(Tコリント13:7)という心の姿勢は、「悔いし、砕かれた心」
が土台にあって、絶対主に受け留められる精神です。愛の行為は、決して下心を抱きつつ
見せつけるものではありません。
イエス様は言われました。「誰でも、わたしについて来たいと思うなら、自分自身を徹底的
に否定し、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)。
この「自分自身を徹底的に否定し」とあるギリシャ語の 「απαρνησασθω」は
新改訳では「自分を捨て」と訳されています。しかし、「徹底的に否定する」という意味に
も用いられています。私たちは、「自分を捨てる」ことは出来ませんが、「自分を否定する」
ことは出来ます。しかも、徹底的に否定するなら、罪人である自分を棚上げしては出来ま
せん。ですから、まずは、自分が生まれながらに罪人であるという土台に立って、現実に罪を
指摘されたら、素直に受け留める心の姿勢から表して行きましょう。
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