私たちの罪は、人間の力ではどうにもなりません。罪を犯さないように心掛けて行くことは
出来ても、罪を犯さない人間になることは出来ません。ですから、絶対主は、地上で犯した
全ての罪は、裁きの対象になるため、人を罪から救う方法は贖い(罪の償いを他人がする)を
する以外にないと判断して、ご自分の御子に、「人間の罪の贖いをして来い」とお命じに
なって、イエス様をこの地に遣わされたのです。それが今から2000年前に起こった
キリストの十字架の死です。キリストの死は、「全世界の罪の贖いのためです」(第Tヨハネ
2:2)とありますので、キリストの十字架以前の人々と、キリストの十字架以後に生まれた
人々の贖いは、AD33年代に完成されたのです。すると、私たちにとっては、生まれる
前から、贖いはすでに完成していたのです。ですから、そのことを知らされ、それを信じた
人々は、自分の罪を悔い、罪人として砕かれた心を持った時、裁きの対象であったすべての
罪から救われるのです。ただし、その贖いは、自分がしたものではありませんので、私たちの
罪は消え去りはしません。それは、信じた後でも、未だ罪を犯す性質はそのまま持ち続けて
行くことになります。しかし、この後、絶対主が全世界の人々の罪の清算を行う時、裁きの
対象であった私たちのすべての罪は、イエス・キリストの贖いの故に、裁きの対象から
外されます。そして、イエス様がお迎え下さる時、その時に罪の汚れから解放された御霊の
体をもって御国に迎えて頂けるのです。ということは、この地上にある限り、私たちは罪の
体を持った者として、罪を犯した時にはその罪を正直に告白し、自分の罪を弁解したり、
守ったり、罪を誤魔化したりすることなく、罪の報いと罪の悔いは自分の責任として
受け留めて行くべきです。それは、罪の贖いを受けているからといって、私たちが犯した罪を
帳消しにしたり、棚上げにすることは、罪の上塗りをすることになるからです。ですから、
この地上で犯し続けて行く罪は私たちの責任として、当然その報いは受けて行くべきです。
このような者が命を閉じた後には、裁きの対象であったものが、キリストによって贖われて
いることに驚き、感動し、へり下る者でしかないことを知らされるのです。ならば、
この地上の罪を誤魔化さず、また、ただ告白するだけでなく、私自身が犯した罪として潔く、
自分が犯した罪は、「私が犯したのです」と告白し、100%罪を認める世界に飛び込み、
へり下りを現して行くべきです。これは、罪人にとって避けてはいけない「自分を罪に定める
心」です。その時、絶対主は「砕かれた悔いし心を蔑まない」と赦しを下さるのです。
罪の贖いを受けたクリスチャンなら、そこまで自分を落とし裁くべきです。
罪の赦しは、全面降伏した時にのみ与えられるものですから。
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