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2018年 NO.657 |
イタリヤの神学者のトマス・アクィナス(1225〜1274年)は、ドミニコ会の修道士 で、その時代の抜きん出た神学者でした。 彼は「神学大全」を顕し、今なおローマカトリック 教会の支配的な教理の父となっています。その彼の思想の元は、アリストテレス(BC384〜 322年)に従うことにより、天からの啓示と人間の理性を同じレベルに置く考え方に、 道を開いた人です。彼の堕落論は、「人間は神に背いて、堕落したが、その堕落は人間の全体 に影響を及ぼしたものではなく、部分的に影響を及ぼす」と考えたのです。その結果、「人間の 意思は堕落したが、知性はその影響を受けなかった。だから、人間はその知性に信頼を置くこと ができる。」と考えたのです。この考え方によって、哲学者たちは次第に天の啓示(聖書)から 離れて行き、絶対主から離れて自律的になって行きました。そして、人間の知性に信頼を置く、 ヒューマニズムの考え方に移行して行ったのです。ですから、このヒューマニズムの考え方は 教会から始まったと言えます。そして、このヒューマニズムの考えは、皮肉なことに、 「教会の権威や神中心の世界観から人間を解放し、ルネッサンスの道を開いて、 「人間は、時間さえあれば、すべての問題を解くことができる」と確信させたのです。 これは、人々に人間は自律的なものであって、すべてのものの中心であるという「人間中心」 の考えに立たせました。そして、「人間は自律的で完全に何ものにもよっていない」という 現代のヒューマニズムに発展して行きました。それ故に、今日の日本の教育も、人間が自律して いるのは当然というヒューマニズムの考え方が土台となって教育されています。ですから、 生まれた時から、命の創造主とは全く関係はなく、ただ個人の自律性を主張する「自分中心の 物の考え方」の中で育ち、当たり前のように、個人の権利を主張する中で育って来たのです。 ですから、このような教育の中で育って来た私たちの中に、「自我を砕く」とか、「へり下る」 とか、「従う」という意識は、負け犬根性であって、聖書の主張する「砕かれた悔いし心を 持って絶対主に従う」という意識の転換は、実に難しいものとなっています。たとえ頭で 「従うことが正しい」と分かっても、生まれ出たこの社会は、「自己の主張」が当然の世界 ですから、イエス様の語られた「自分自身を徹底的に否定し、自分の十字架を負って、わたし に従って来なさい」(マタイ16:24)というメッセージに心を開くことが出来ないのです。 なぜなら、知性は堕落していないというヒューマニズムの考えが土台にあって、自分の考え、 思いを否定するようには、教育されて来なかったからです。しかし、主に従うことは、 「自分自身を徹底的に否定する」ところから始まります。そうでなければ、絶対主といつも 「喧嘩」することになります。そこで皆さんはどうでしょうか?「あなたは絶対主と喧嘩する ことを願いますか?自分の考えの方が正しいと主張しますか?」 と言うことは、「自我を砕く決断」です。なぜなら、人間は全的堕落だからです。「信じる」 と決めるなら、トマス・アクィナスの考えを否定して、イエス様の主張(マタイ16:24) に従いましょう。それを決断するのは「自分」です。いつ決断するのですか? 「信じた時」です。しかし、遅くはありません。今、決断して、信じた者として自分の心を いつも開き、「自我を砕く」と決めて行きましょう。そこから、初めて絶対主を信じる信仰生活 が始め出せるのですから。 |
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