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2018年8月19日

イエス様が弟子たちの足を洗われた意味

ヨハネの福音書13:1~17


(起)ヨハネの福音書13章の洗足の儀式より、「イエス様が弟子たちの足を洗われた意味」を考え、

「罪人として当然のへりくだりと、イエス様を信じ続けて行くことの重要性」を学んで行きたいと

思います。

(承)さて、ここでは、イエス様が弟子たちの足を洗うという驚くべき出来事が記されています。

この時、弟子たちは、自分たちの教師であり主であるイエス様が自分たちの足を洗い始められたこと

に驚き、ペテロが「どうして私たちの足を洗われるのですか?どうか、私の足を決して洗わないで

下さい」と言うと、イエス様は、「もしわたしが、あなたの足を洗わなかったなら、あなたとわたし

は、何の関わりもなくなります」と答えられたのです。そこで、ペテロは、「では主よ。足だけでは

なく、手も頭も洗って下さい」と言うと、イエス様は、「既に体を洗った者は、足の他に洗う必要が

ありません。その人は、全身が清いのです」と答えられました。ここで「全身が清い」と言われた意味

は、どういう意味合いなのかと言いますと、「イエス様が、ご自身の命を差し出して罪の贖いをして

下さり、私たちを罪から清めて下さった」という意味です。しかしながら、それでも足を洗わなければ

ならないのかと言うと、
たとえ体を洗ったとしても、足の裏は常に汚れてしまいます。ですから、

たとえイエス様の贖いを受け入れていても、
日常的に罪を犯してしまう者ですから、私たちは、日常的

に足の裏を洗ってもらわなければならないのです。私たちは、この地上にいる限り、罪を犯さなくなる

ことは決してありませんので、
いつもイエス様に足を洗ってもらわなければ、その汚れはずっと付いた

ままになって平安を失うのです。
だから、私たちは常にイエス様と繋がっていなければなりません。

自分はイエス様を信じているから大丈夫と言う訳ではないのです。もし、イエス様から足を洗って

もらわなければ、その人は「あなたとわたしは、何の関わりもなくなります」と言われてしまうの

です。私たちがイエス様の救いを実際に経験するのは、命を閉じた後に主の贖いの故に裁きから救わ

れる時です。それまでの間は、この地上で、イエス様との関わりを持ち続け、信じ続けてきた証が重要

なのです。


(転)では、「イエス様との関わりを持ち続け、信じ続けて行く」とは、具体的にはどういうこと

でしょうか。それは、
まだ現実には起こっていないこと、まだ見ていないことを、忍耐して信じ続けて

行くこと
です。ヘブル書11章1節を見ますと、「主を信じる心とは、望んでいる事の証書であり、

まだ見ていない事を確認することです」と書いてあります。私たちは、今はまだ、全能主の救いを

具体的には見ていません。しかし、見ていなくても信じ続けて行くところに信仰があるのです。

信じると言う事は、救いの結果であるパラダイスを
見たから信じるというのではありません。

それならば、信じて期待する心は必要なくなります。キリストの救いは、信じたらその場で天に

上げられると言うものではないからです。勿論、その経験を味わった人もいます。十字架に架けられた

強盗の一人はそれです。しかし、それでも、信じる心なくしては実現しませんでした。私たちの場合

「信じる」とは、まだ見ていなくても、望んでいることを忍耐して、期待し受け止めて行くこと

あります。私たちの教会は、
「聖書に書いてあることは今日も起こる」と信じ、「信じる者に働く

全能主の全能の力を味わいたい」
と、ただそれだけを追い求めてここまで来ました。それは、これから

始まる大リバイバルの働きに使っていただく中で、味わって行くものです。私たちが信じている全能主

は、死んで四日も経った人間を甦らせることができたお方です。四日も経てば、もう細胞が壊れて

死滅していますから、その人間を生き返らせることは、あり得ません。ところが、全能主はそれが

お出来になったのです。その
全能主の全能の力を、私たちはこれから味わい、まさに「聖書に書いて

あることが今日も起こる」ということを確認して行く
のです。

(結)どうか、このことを信じて下さい。「たとえ今は分からないことがあったとしても、必ず後で

分かってくるはずだ」と、へりくだって受け止めて行く心、それが信仰です。人間は、何事も一面で

判断しようとする肉の性質があります。だから、いつも一面で物事を見て、「自分はこう思う」と言い

切ってしまう傾向があります。しかし、人間は全能ではありませんので、実際は何も見えていない

のです。だからこそ、罪人としての限界を認め、当然の如く全能主の前にへりくだりつつ、どこまでも

イエス様を信じ続け、全能主に期待していく信仰を表して行こうではありませんか。

 
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