(起) 「あなた方は皆、今夜わたしにつまずきます」と言われたペテロの受け答えを通して、砕かれて、
お手上げにされた罪人の姿こそが、「空っぽの器、砕かれた悔いし心である」ということを学びたいと
思います。
(承)さて、ここでイエス様は、弟子たちに対してはっきりと「あなた方は皆、今夜わたしにつまずき
ます」と言われました。そこでペテロは、「たとい、皆の者がつまずいても、私はつまずきません」と
言い張りました。しかしながら、現実は、どうであったのかと言いますと、はっきりと言い切ったにも
関わらず、「イエス様を知らない」と3回も言って、大祭司達の裁きから自分を守ってしまったのです。
ということは、「私はつまずきません」と言い切ったのは、「彼の肉の正義感」で答えただけだったの
です。ところが、この世の教育は、「このペテロのように答えなさい」と教えられています。すなわち、
「たとえ他の者が裏切っても、私は裏切りません」と表明することが、「誠実な人の道」だと、
教えられて育ってきました。ですから、たとえ自分に出来ないと思っても、そのように言うことが
正しいと、子供の頃からインプットされています。しかし、そのように、格好良く言い切ることを
したからと言って、人生の中で「自分の表明した通りにやってきたのか?」というと、決してそうでは
ありません。もし、今までの人生を振り返って再現ビデオを見たならば、「どれだけ人に甘言して
裏切って来たことか。また、人を小馬鹿にして、人をつまずかせてきたことか。」そのことが、明らかに
なります。すると、自分が如何に卑怯な人間であるかを思い知らされるだけになるでしょう。だから、
大言壮語が出来ないその事実をはっきりと見つめ、「言い切っても、言い張っても」、その通り出来ない
自分の罪に気づくべきです。自分の生まれながらの罪深さを認める心を、ペテロが持っていたならば、
ここまではっきりと言い切ることはしなかったでしょう。むしろ、イエス様の言葉をへりくだって心に
受け止める心を表していたことでしょう。それなのに、ペテロがここまで言い切ってしまったのは、
「自分は過去において、つまずいた愚かな者である」という事実を勝手に無視し、自覚しようと
しなかったからです。それどころか、自分自身の過去のつまずき、嘘、騙し、ごまかし、裏切り、
そういった自分の醜い部分を、帳消しにしていたからです。そして、「自分はそんな卑怯な者ではない」
と思い込み、人から信頼される者のように見せようとしていたからです。このような見栄は、
ペテロ自身がどこまでも自分が罪人であることを認めようとしない心があったからです。ですから
私たちも、キリストの前に、自分の罪深さを自覚していない人は、ペテロと同じように振る舞うの
です。
(転)すると、私たちはどうすればいいのでしょうか。私たちがたとえ信じた者であったとしても、
ペテロと同じように、身の程知らずのことを言ってしまうなら、キリストを逆なですることになります。
先程も申し上げたように、この世の教育は、自分の正義感を持って生きていくことを奨励しています
から、「人がつまずいても、私はつまずきません」と言い切ることが、「正しい生き方をする者の心」
だと思っています。また、本当は弱い人間で、卑怯な人間、人を裏切る人間、人を騙す人間であるにも
関わらず、「これからは、もうしません」と、反省した心を表さなければ、受け入れて貰えないと考えて
います。それは、心を変えた、前向きな心を表さなければ、親や教師の気持ちをなだめることができない
からです。だから、たとえ「出来ない」と思っても、如何に相手を信用させる言葉を使うか、という
テクニックの奴隷になるのです。逆に、自分の心に正直になり「自分は言い切れない者です」と言って
しまえば、親や教師の心を逆撫でし、顰蹙を買うことになります。だから、「これからは
真面目にやります」と、その場限りの言葉で、親や教師を安心させようとするのです。ところが、それは
全能主の前には、到底受け入れられるものではありません。なぜなら、全能主は私たちが生まれながらの
罪人であることを見通しておられるからです。ですから、全能主の前に通用する心は、「とても自分には
言い切ることが出来ません」と正直に表すことです。それが事実だからです。しかし、全能主は人間の
心をお見通しですから、その正直な心を軽んじられることはありません。そこが、この世とは違うところ
です。ですから、クリスチャンは、この世の人々と同じように考えてはいけません。それは、私たちが
世に対して死んだ者であり、全能主に対して生きる者だからです。ですから、「罪人の自分は、正しい
道を歩んで行こうと思っても、その通り出来ない、罪の中にある弱くて情けない者です」と、
へりくだった心を持って行くべきです。
(結)このようにしていきますと、私たちは自分に対して嫌気をさし、自分に対して悔いてばかり行く
ことになります。しかし、それが罪人の生の姿であり、人間が持っている現実ですから、その事実を
曲げたら、キリストの死を無意味にすることになります。だから、私たちは、お手上げするしかあり
ません。罪人にできることはそれだけです。地上にあっては、「罪人は、罪人である」という現実を認め
続けて行くだけです。しかし、全能主はそのような者を「蔑まない」のですから、その事実を正直に
認めて遜って行けば、「そこから始めて行きなさい」と言って下さり、キリストの頼って生きて行く道が
開かれてくるのです。それは、全能主は「どうにもならない、お手上げの罪人を救うために、
イエス様に、身代わりに死んでこい」と言われたからです。ですから、罪人が、正直に罪人の立場を
取れば、イエス様の御陰で、全能主と私たちは繋がるのです。全能主との繋がりはそこだけです。もし
自分の罪を指摘された時には、自分の弁解の心をご破算にして、そのまま受け留めましょう。
この砕かれて、お手上げにされた罪人の姿こそが、「空っぽの器、砕かれた悔いし心」です。どうか、
一人一人がここに明確に立ち、全能主の前に遜って行きましょう。
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