(起) マルコ12章18節から、イエス様の言葉尻を捕らえて、罠に陥れようとしたサドカイ人の
質問を通して、「クリスチャンは、地上の律法よりも、如何に全能主と繋がった心が大切であるか」
を学び、「天に突き抜けた信仰を育んでいくこと」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、この「サドカイ人」とは、ユダヤ人でありながら、復活も霊の存在も信じていない
ユダヤ議会の一派の人々です。そんな彼らがイエス様に質問した問いかけは、「モーセの律法の
書に、『もし、ある人の兄が死んで、残された妻に子がいない場合、弟はその女を娶って、兄の
ために子をもうけなければならない』という律法を逆手にとって、ある女が、七人の兄弟全員に
嫁いで子を残すことができずに死んでしまった場合、その女は復活の時、いったい誰の妻となるので
しょうか?」という質問でした。本来なら、復活はないと思っている人間がこんな質問をする必要は
ありませんが、彼らは、イエス様が「復活がある」と語られていたことに反発して、このような
質問をぶつけたのです。この質問は、彼らにとっては取って置きの質問だったのですが、イエス様は
明確に彼らに返答されました。それは、「人が死人の中から甦る時には、娶ったり、嫁いだりする
ことはありません。人は天にいる御使いたちのようになるからです」と答えられました。すなわち、
地上において繋がりがあったという事実は残りますが、復活して天に上げられた時には、夫も妻も
関係はなくなります。ですから、モーセの律法というのは、あくまでもこの地上の律法であって、
天の律法ではありません。だから、地上の律法よりも、もっと大切な律法があると言うことです。
それは、如何に全能主と繋がった心を持って天に行くかということです。実は、イエス様は、地上の
律法を廃止されました。(ローマ書10:4節)
(転)では、全能主と繋がる心とは、どのような心でしょうか。それは、全能主のお考えを
汲み取り、その通り行っていく者となることです。いくら「自分はあれをやりました、これを
やりました」と言っても、それが全能主の意向と違っていたら何の意味もありません。まさに、
「『主よ、主よ』と言う者が、皆天の御国に入るのではありません。ただ、天におられる父の御旨を
行う者だけが、入るのです」と書いてあるとおりです。だから、私たちは形だけの地上の律法の
定めを行うのではなく、本当の定めは、実(内容)のある全能主との繋がり、その生き方を
しなければならないということです。すなわち、「命を閉じるときまで全能主を信じ続けた」という
命を懸けた証しが必要です。イエス様は私たちの魂の贖いをして下さった救い主であり、私たちは
イエス様を信じたことによって、天に行くことが出来る者とされました。それは全能主のひとり子で
あるイエス様の命を懸けた救いですから、重みがあります。だからこそ、信じると言うことは、
自分の自由意志によって決めた純粋な決断ですから、たとえ自分の命が取られることがあっても、
最後までイエス様を信じ切る生涯を通さなければなりません。それを、単なる地上の柵に
しがみつき、廃止された地上の律法に拘り、地上の栄光を追求して行く心を持っていたら、
地上に繋がっても、決して天には繋がりません。だから、私たちには、天に突き抜けた一途な信仰が
必要なのです。すなわち、「全能主を信じる道を選択したことによって、家族との関係が悪く
なったらどうしよう」とか、「人から後ろ指を指されたらどうしよう」とか、そういう思い考えに
捕らわれない信仰を持つべきということです。確かに、どこまでも全能主を信じる道を選択して
行くことによって、地上では憎まれ、家族から裏切られることもあるかもしれません。それは
聖書にも書いてあることですから、これから十分起って来ることです。しかし、いつまでも
そのような地上の結びつきに捕らわれていたら、何の意味もなくなってしまいます。救いは天の
ことですから、全能主の結びつきがすべてです。なぜなら、イエス様の贖いの目的は、私たちを
地上で幸いにすることではなく、地上の悪魔の柵の世界から引き出し、天の御国で復活させる
ためだからです。だから、私たちが地上のことばかりに心を向け、地上の栄光にしがみつこうとする
心は間違っています。私たちは、地上の事柄を突き抜けて、天に突き抜けた一途な信仰が必要なの
です。
(結)どうか、今こそ、「全能主から導かれたら何でもやります」と、天に一途に向かって行く
信仰の世界に飛び込んで行きましょう。この決心なくして、これからの働きは始まりません。
どうか、地上に心を結びつけて行くのではなく、どこまでも全能主との繋がりを第一にして行く
一途な信仰を表して行きましょう。その中にあって、地上では大きな試みを受けるかもしれません。
あるいは、迫害を受けるかもしれません。しかし、そこで私たちは証しを残すのです。全能主は、
そこへ私たちを導き、そこで証しを残させたいが故に、これまでの念入りな導きや取り扱いを与えて
下さったのです。どうかこの全能主の心を汲んで、もう自分のことや、地上のことにとらわれずに、
天に心を向けて行きましょう。そして、天に突き抜けた信仰をはっきりと証しして行こうでは
ありませんか。
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