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2018年5月27日


救いの根拠は自分ではなく、イエス様の贖い

ローマ人への手紙14:10~12、第一テモテ6:12他

(起) 「救いの根拠は自分にあるのではなく、イエス様の贖いにある」ということを学び、「この地上に

あって、
主を信じ続ける戦いを立派に戦い抜き、最後の最後までイエス様の贖いを信じ続けて行く」

ということを学びたいと思います。


(承)さて、ローマ書14:10を見ますと、「私たちは皆、全能主の裁きの座の前に立つのです」と

あり、黙示録20:12には、「死んでいた者が、大きい者も小さい者も共に、全能主の前に立って

いるのが見えた。・・・死人はその行いに応じ、この書物(いのちの書)に書かれているところに従って

裁かれた」とあります。私たちは皆、死んだあとに全能主の前に立ち、それぞれの行いに応じて裁かれ

ます。人間の命を造られたお方は、「人の命を生かすか、殺すか」の主権も当然持っておられるから

です。私たちは皆、この全能主の裁きの座の前に立たされ、今まで犯してきた罪の清算がなされるの

です。


(転)では、私たちが天国に行くか地獄に行くかを決めるのはいつでしょうか。それは、死んだあと

ではなく、今生きているときに決めるのです。
どうして、
今決めることができるのかというと、

それは、
イエス様の贖いがあるからですそれは過去において、「イエス様が私たちの罪の贖いの

ために死んで下さった(アオリスト形)」という事実があるが故に、私たちは今、天国に行くか地獄に

行くかを決めることができます。旧約聖書の時代は、イエス・キリストの贖いはありませんでした。

だから、その時代の人々は、自分が生きている内に、天国に行くか地獄に行くかを決めることができず、

死んだ後どこへ行くか、その判断はすべて全能主にお任せするしかありませんでした。

ところが、私たちの場合は、イエス様が私たちの罪の贖いをして下さったという事実があるが故に、


天国に行くか地獄に行くか
を、今生きているときに決めることができる恵みがあります。しかし、

私たちは罪人ですから、地上にいる間、罪を犯し続けます。だから、初めに申し上げたように、死んだ

あと、全能主の裁きの座の前に出て、罪の清算を受けなければなりません。すなわち、一人一人、自分の

行いに応じて裁かれるのです。しかし、生きているときにイエス・キリストの贖いを信じ続けた人は、

裁かれることがないのです。本来なら、私たちは罪人ですから、誰一人罪の裁きから逃れられる者は

いませんが、全能主は御子イエス様を遣わして下さり、人間の罪の償いを十字架上で成して下さった

ことにより、それを信じ受け入れた者をお赦し下さるのです。すなわち、
「罪人をお赦し下さる」という

ことの根拠は、イエス様の贖いだけにある
ということです。これは何とありがたいことでしょうか。

確かに、生きている時に自分が犯してきた罪は、裁きの対象です。
でも、救いの根拠は私たちに

あるのではなく、
ただ、イエス様の贖いが根拠ですので、私たちのような罪人であった者も、信じ通した

者は、罪の負債の責任を取らされることなく、天国に入れていただけるのです。
このことについて明確な

理解をもって信じていない人は、どこに救いの根拠を置くのでしょうか。それは、
自分の行い

自分の信じた信仰に根拠を置くことになります。すると、救いは信じた自分にかかってくることになり、

それが律法的な信仰になって大きなプレッシャーとなります。「信じることがこんなに苦しいなら、

もう辞めよう」とさえ考え、弱い人間では信じ続けることが難しいからと考えて、もし信仰を捨てたら、

罪の贖いの根拠を失います。すると、
死んだ後の罪の精算の時に、自分の全ての罪の責任を自分が負う

事になり、当然地獄の燃える火の中に陥ることになります。


(結)こういうわけで、「救いの根拠がイエス様の贖いにある」という真理から離れると、救いが

分からなくなります。この惑わしは、「キリストの救いが自分の信仰に掛かっている」と錯覚する

ところにあります。確かに、天国の保証はキリストの贖いに掛かっているのは当然ですが、
僅かな

隙間から、自分の信じた信仰の努力に根拠を置くように考え始めてしまうのです。
もちろん「信じる

信仰は重要です。」
しかし、信じていくのは努力ではなく、当たり前なのです。こうして、救いは全て

キリストの贖いに掛かっている出来事ですから、たとえ迫害が起こり拷問を受けることになった

としても、信じる信仰だけは通して行けばいいのです。しかし、
もし自分の信仰に根拠を置くなら、

拷問を受けた時、信じる強さを表わし、自分が頑張らなければなりません。ここに陥るとキリストの

贖いが吹っ飛んでいってしまいます。
信じることについては同じようでも、大きな違いが起こって

きます。それは、イエス様に委ねられるかどうかが違ってくるからです。ですから、「イエス様の贖いが

根拠であることが明確なら、生きている時に、信じることを決めるだけです。
これが分かったら、

生涯イエス様を信じ、ミュラーさんのようにイエス様に懸けて行くことは、当然のことでしょう。

どうか、この真理に立って、「主を信じ続ける戦いを立派に戦い抜いて、永遠の命を獲得しなさい」

(第Ⅰテモテ6:12)とありますので、最後の最後までイエス様の贖いに根拠を置いて、信じ続けて

行こうではありませんか。

 
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