(起) アオリスト形を用いて記されている救いについて学び、自由意志による信仰は、「ジョージ・
ミュラーさんの信仰の決断に習い、私たちもどこまでも全能主を信じていく決心を御霊様の助けによって
定め、その生き方に飛び込んで最後まで信仰を全うして行くこと」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、ローマ書では、罪からの解放について、アオリスト形を用いて記されています。アオリスト
形とは、過去形を表すギリシャ語の時制ですが、それは日本語の過去形とは違い、「現在の状態がどうで
あろうが、過去に実際に起こった出来事を単純に示す時制」です。すなわち、現在自分が死んで
いなくても、現在の状態の如何に関わらず、死んでしまったものとして示すのがアオリスト形です。
例えば、6章4節の「私たちは、キリストの死の中にバプテスマされたことによって、彼と共に
葬られたのです」という御言葉は、「現在私たちは葬られてはいませんが、死んで葬られた者とされた」
ということです。また、6章6節の「私たちの古い人は、キリストと共に十字架につけられました。
それは、この罪の体が滅ぼされて・・・」という御言葉も、現在私たちは生きていますが、「十字架に
つけられて死に、罪の体が滅ぼされたものとされた」ということです。ということは、救いというのは、
イエス・キリストが過去において死んで下さったことによって、私たちの現在の状態の如何に関わらず、
「私たちもキリストと共に死に、キリストと共に甦って新しい命の中にある」と言うことです。
すなわち、信じた者は「全能主から、そのように見て貰っている」ということです。自分自身の現在の
状態を見ると、罪の体が滅ぼされ、罪から解放されているとは到底思えませんが、全能主は、キリストに
あって、現在の私たちを「そのように見て下さっている」ということです。これは、単純にとても嬉しい
ことです。
(転)では、私たちがこのように見て貰っている現実の中で、これから、どのように信仰を働かせて
生きて行くべきか、この救いの本質を考えましょう。まず、現在の私たちは、キリストの救いを頂いた者
ですが、現実はなお罪の中にある者です。なのに、全能主は、「私たちを罪から解放された者です」と
見て下さっているのです。これは、キリストの故にそうされました。ですから、そのように信じること
です。しかし、果たして、「それは本当のことですか?」と、疑いたくなってしまうのも現実です。
なぜなら、現在の自分が罪から本当に解放されてはいないからです。しかも現実には、私たちの中には
厄介な魔物が住んでおり、この魔物は日々、私たちを誘惑し、私たちに邪な思いを抱かせ、
その上、私たちが罪を犯した時は、「自分は現実に罪を犯している罪人であるのに、その事実を正直に
認めさせないばかりか、『そこまで怒られるならもういいです。私はそういう人間ですから』と
開き直らせて、不信仰に落とし入れる」のです。だから、イザとなると、私たちは、自分を守って
逃げ出してしまう卑怯な者になるのです。クリスチャンがこんな思いを抱き、魔物を抱え込んだまま
なら、これから患難時代に入り、様々な苦難が起こってきた時、「それでも、私はイエス様を信じて行き
ます」と、一筋に通して行けるのか不安になります。むしろ、「こんなに辛い目に遭うなら、救いも
何もかも、もうどうでもいい」という気持ちにさえなってしまうのではないかと、恐れを抱きます。
そんな恐ろしい心を、信じた後でも持っているのが現実です。しかし、そこで全能主は、「その裏切り
だけは絶対にしてはいけません」と厳しく忠告されます。なぜなら、「あなた方の罪は、キリストに
よって贖われているので、たとえ、今魔物の心が働いたとしても、それでキリストの贖いを否定して、
救いを失うこと決断をしてはいけません。むしろそんな罪人だからこそ、わたしは(全能主)、御子の
命と控えにして罪を贖ったのではないですか。だから、わたしが(全能主)救ったことは間違えのない
事実ですから、自分の罪を自覚して、それを告白するなら、それで良いのです。あなたの罪は、
キリストの死によって償われているのですから、救いを否定してはいけません。罪の救いは自分でした
ことではなく、キリストがした(アオリスト形)過去の事実ですから、どんなに罪深い現実を今感じて
いても、わたしの前にどこまでも遜って行くならOKですよ。そこで信じる心を諦めたら、あなたと
キリストの関係は切れて、救いも切れますよ。」と全能主が言われます。そして、全能主は続けて言われ
ます。「ですから、今あなたの出来ることは、『自分の内にいる魔物と信仰によって決別し、魔物の
思いを封印し続けて行くことです』その行為が、信じた者の信じ続ける行為です。それは、言葉を
換えると、『ミュラーの信仰の中に飛び込む』ということです。ミュラーは、『どこまでも全能主を
信頼して行く』という心の定めの上で、孤児を育てて行くことを決心しました。もし、彼が『全能主を
信頼して行く』という定めがなかったら、『子どもたちに与える食事がない、お金もない』という状況が
起こった時、彼は、『私がこれだけの孤児を抱えていることを全能主は知っているはずなのに、何故
与えてくれないのですか』と文句を言い、『もうどうにでもなれ』と開き直って放棄していたかも
しれません。しかし、それをやってしまったら、集まってきた孤児たちを飢え死にさせることになります
ので、『それだけは絶対にしてはいけない』と心に決めていたのですよ。だから、彼にとって『孤児を
育てる』という決断は、『何があっても全能主を信頼して行く』という決断と同じだったのです」と
全能主が言われます。そこで、私たちも、信じることを不安にさせる魔物の声を封印し、「もう
どうにでもなれ」と言う思いだけは絶対に持ってはいけないのです。それは信仰を切ることですから。
しかしながら、生涯信じ続けていくこの決心には、勇気が必要です。なぜなら、自分の願うように
全能主がして下さらない時だってあります。でも、信じ続けて行かなければならないのです。それだけ
信じることには、忍耐がいります。その為に、弱い私たちには強力な御霊さまの後押しが必要です。
それは、信じるときも同じでした。私たちは、「信じたいけど、心が付いていかない」という中で、
「どうか信じさせて下さい」と叫び求めた時に、御霊さまの強力な後押しによって信じさせてもらったの
です。
(結)ですから、今こそ、信じた時の気持ちに帰り、必死になって祈りましょう。そして、「私は全能主
しかありません。魔物の声を封印し、ミュラーさんの信仰の中に飛び込みます」という決心を、
御霊さまの助けによってさせてもらいましょう。そして、命閉じる時まで、全能主を信じ続けて行く
歩みを全うしようではありませんか。
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