(起)ルカ17章6節の御言葉から、「からし種一粒ほどの信じる心とは、全能主に100%
頼って行く心である」ということを学び、私たちも全能主に100%頼って歩み出す信仰の生き方
を学びたいと思います。
(承) さて、この中でイエス様が言われた、「からし種一粒ほどの信じる心」とは、どのような
あくた
心でしょうか。それは、私たちがイエス様を信じたときの最初の心です。すなわち、汚い芥の中に
落ちていた私たちを、イエス様が拾って下さり、イエス様が血潮によってきれいに洗って、その
私たちを全能主が受け入れてくださった。その救いを喜んで信じた、初めの信仰です。そのとき
から、私たちは「全能主が罪人を受け入れて下さったが故に、私たちも全能主の方に心を向け、
全能主に100%頼って行くことができる」という新しい道を歩み始めました。この、全能主の
方に心を向けて行こうとする心こそが、「からし種一粒ほどの信じる心」なのです。イエス様は、
「その心さえあるならば、 あなた方の信仰は増して行きます」と言われました。私たちは、
「信仰を増す」というと、「一生懸命何かやらなくちゃいけない」と思いがちですが、そうでは
ないのです。要するに、全能主に心を向け、全能主に100%頼って行く心があれば、私たちの
信仰は増して行くのです。
(転) しかしながら、私たちは未信者時代に、目に見えないものに頼るということを経験して
いません。ですから、目に見えない全能主に心を向け、全能主に100%頼って行くことがなかなか
難しいのです。そんな中で私たちが頼って来たのは、まず「自分」でした。そして、次に「人」、
次に「お金」です。このような、目に見えるものに頼って行くことが、この社会での常識になって
いたので、私たちもそのようにして来ました。しかし、これらのものは、どこまでも、罪人の社会
です。ですから、一時の気休めにはなっても、本当の解決にはなりません。特に、一番頼りにして
きた「自分」という者は、生まれながらに罪人で、罪に汚れた肉の性質を持っています。それは、
他の人間であっても同じです。だから、いつも裏切られてきたのです。しかし、そんな肉の性質を
持った私たちが、イエス・キリストを信じたことによって、「誰でもキリストにあるなら、その人
は新しく創造された者です。古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくなったのです」
(第Ⅱコリント5:17)という御言葉通りに変えられて行けば良いのですが、信じてからも、
私たちの肉の性質は変わりません。だからといって、この御言葉が間違いなのかというと、決して
そうではありません。イエス・キリストを信じた者は、イエス・キリストの復活に預り、新しい命
を頂いて天に上げられます。だから、霊的な目で見れば、この御言葉は正しいのです。
ところが、「この地上にあって、私たちの肉の性質は変わらない」ということも真実です。
このような二面性の中で、最近見えてきたことは、「全能主は、私たちが生まれながらに罪人で、
どうにもならない肉の性質を持った者であることを承知のうえで、私たちを救い、これからの働き
に使おうとして下さっている」ということです。それが分かったら、「私たちは弱いから駄目だ」
と思う必要はありません。むしろ、弱いからこそ一生懸命全能主に心を向け、全能主の御心に
合わせて行けば良いだけです。もし全能主の御心が分からなければ、私たちは聖書を通して確認
することもできます。このようにして、私たちがいつも全能主の御心に合わせて行くことを願い、
全能主に100%信頼して心を向けて行くならば、私たちのような、どうしようもない罪人でも、
全能主は好意的に見て、助けて下さいます。だから、全能主に100%頼る信仰によって、私たち
の信じる信仰は成長して行くのです。
(結)ですから、一番大切なことは、「誰を信じるか」ということです。「自分を信じるのか、
人を信じるのか、お金を信じるのか、全能主を信じるのか」。私たちにとって、全能主を信じるの
が当たり前ではありませんか。ならば、自分に頼ってみたり、全能主に頼ってみたりと、都合良く
使い分けるのではなく、すべての面において、全能主に100%頼って行く信仰を始めるのです。
ジョージ・ミユラーさんは、その手本を見せてくれました。だから、私たちは罪人の自分に根拠を
置くのではなく、全能主に寄りすがり、全能主に100%心を向けて行けば良いのです。「自分の
頭で考えて、自分で何とかしなければならない」ということは、一つもありません。すべての面に
おいて、全能主に頼り、全能主の導きを受けてやらせていただくように、信仰の心を出しましょう。
そうすれば、私たちの信じる心は必ず増して行きます。どうか、全能主に100%頼って歩み出す
信仰の生き方を始め出して行きましょう。
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