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2017年 NO.606 |
「信じる」 とは、そのままを受け入れることです。 例えば、「人の言葉を信じた」というなら、相手の言葉を信用して受け入れたということ ですので、相手の言うままを全部留めて、「相手の言い成りになる」 という行動が伴って 来ます。ところが、「イエス・キリストを信じる」と言いながら、自分の気持ちが付いて行か ないと、頭だけでは「信じる」と言いながら「行動が伴わないこと」が、現実に一杯あります。 その場合は「口で信じている」と言いながらも、心の中で疑問を感じていたり、ある部分は受け 入れても、他の部分は、理解できないと反発したり、受け止められない事柄について「ああだ、 こうだ」と、頭の中で自分勝手な考えを思い巡らせます。これは、「信じた振りをしている」 ということであって、信じたことにはなりません。広辞苑によれば、信じるとは「まことと 思う。正しいとして疑わない。間違いのないものと認める。頼りにする。信用する。信頼する」 という意味であると書かれています。ですから、私たちが「絶対主を信じる」というなら、 間違いのないものとして認め、絶対主の言い成りになり、することです。 ですから、語られている御言をそのまま信じて疑わないで、その御言の通り行動に移すという ことが正しいのです。たとえ言われている御言が、自分で理解できなくても、それが正しいこと だと無条件で受け入れて、そのままして行くことが、クリスチャンの信じる行動なのです。 なのに、20年、30年も「砕かれた心」を持つように教えられて来たということは、 私たちは、「絶対主を信頼して、信じて来なかった」ということになります。 「砕かれた心」とは、自分が理解できる、できないではなく、「信じたのなら、絶対主の言う 通りやります」ということです。これが信じることなら、私たちは、「いつになったら 信じるのでしょうか。」「どうすれば素直に言われた 通り信じる者となるのでしょうか」 この答えが、まだ出ていません。いくら御霊様の言葉を聞いても、イザとなると、自分の考えが 先立って「固って、お客さん」になっているのです。これでは、信じたことになりません。 「いつ信じるのですか、いつ言い成りになる」と決めるのですか。好い加減に、自分の主義、 主張を捨てて、「信じる信仰」に立とうではありませんか。 |
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