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2017年 NO.582 |
絶対主と繋がる者とは、「絶対主のためにあれをしてきた、これをしてきた」という者では ありません。ただ、「自分がどうしようもない罪人であることを認め、へり下った者」が 繋がるのです。確かに、聖書を読むとイエス・キリストを信じたならば、「こうして行き なさい。ああして行きなさい」という勧めがたくさんあります。しかしそれをしたとしても、 「自分はどうしようもない罪人である」という土台の上でしなければ、何の意味もありません。 なぜなら、良き行いで救われるなら、イエス・キリストが来る必要がなかったからです。 もちろん、良き行いをすること自体は悪いことではありません。しかし、罪人であるという 土台を見失って、聖書に書いてある行いに価値を置いて来た者は、命を閉じた後で絶対主の 前に出た時、必ず「やって来た」という誇りが出てしまいます。そして、「自分はこれだけ やってきたのに、何故ですか?」という反抗的な思いを出してしまうのです。このことが 一番恐ろしいことです。たとえ「イエス・キリストを信じてきた」としても、罪人である という土台がなければ、最終的には絶対主に突き放されてしまいます。逆に、地上にあって 「イエス・キリストを信じます」と告白していなくても、自分の罪に対して正直な者は、 絶対主は心をかけて下さり、「水一杯の者として」受け入れてもらえる可能性があります。 だから、この地上にあって絶対主の前に、どのような心が大切かと言えば、まず、「自分は どうしようもない罪人にすぎない」という心を一生涯持ち続けて行くことです。 そして主に祈るとき、自分の願望を感情的に押し付けるのではなく、「自分は罪人にすぎ ないので、100%絶対主に頼ってやっていきます」と祈るべきです。「良きことが出来たか、 出来なかったか」という所を主が見られるのではなく、どこまでも「罪人が絶対主に頼って やった」というところに価値があるのです。これは罪人にとって、本当に幸いな生き方です。 どうか、何をするにもこの心で、一つ一つやって行こうではありませんか。生まれながらの 罪人が、良き事をしたとしても罪人に変りないのですから。 |
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