(起)「砕かれた悔いし心とは、たとえ自分にとって嫌なことを言われたとしても、心を開き、
へりくだって受けとめて行くことである」ということを学びたいと思います。
(承) さて、今お読みした箇所には、てんかんの少年の父親がイエス様の所にやって来て、
「息子に取り憑いている悪霊を追い出してほしい」とお願いしました。最初、この父親は弟子
たちにお願いしたのですが、弟子たちは、少年に取り憑いている悪霊を追い出すことができ
なかったのです。しかし、この記事の少し前を見ますと、9章1節に、「イエスは十二弟子を
呼び、彼らにすべての悪霊を制し、病気を癒す力と権威をお授けになった」とあります。
そして、9章10節には、使徒たちは帰って来て、「イエス様の御名によって命じると、悪霊は
出て行き、多くの人たちが癒された」と報告しました。ですから、弟子たちは、悪霊の追い出し
を実際に経験していたのです。だから、弟子たちは当然、この少年の悪霊も同じように追い出す
ことができると思っていたことでしょう。しかし、 実際は追い出すことができなかったのです。
これは弟子たちにとって大きなショックでした。このように、いくら権威を授けられたとしても、
与えられた権威は、決して人間の力ではありませんから、用い方によって制限が起こります。
ですから、何でもかんでも思い通りにできるわけではありません。弟子たちは、その現実を
見せつけられ、自分の無力さを痛感したのです。
(転) では、私たちはどうでしょうか。私たちも、「いくら祈っても叶えられない」、
「絶対主に頼ってやっても、ダメなものはダメ」という経験を、何度も味わってきました。
すると、悪魔は私たちの弱さをつつき、絶対主を信じてもダメなものはダメだと攻撃を仕掛けて
来ます。そんな時、この悪魔の声によって「やっぱり自分のような者はダメだ」という弱気な
方向に向かって行き、絶対主に対する不信感が募り、不信仰になって最終的には悪魔の思う壺に
はまり、絶対主との関係さえも自らが切ってしまうことがあるのです。そんなことは、決して
あってはなりません。
しかし、そこで逆に強がってその悪魔の声を無視すると、「本来の無力な罪人である」という
事実を認めず、自分の力に根拠を置いて、一生懸命自分の義を立ててやろうとしてしまうのです。
しかし、それは、律法主義に陥りますので、これも間違っています。では、私たちはその悪魔の
攻撃に対して、どのように対処して行けば良いのでしょうか。それは、まず悪魔につつかれた
自分の弱さについては、たとえ悪魔の声であったとしても正直に認めることです。たとえ悪魔の
声であろうが、それが現実なのですから、正直に受けとめ、事実を事実として認め、そこで、
あえてへりくだって絶対主に頼り、改めて下手に出て助けを求めるのです。これは、悪魔から
責められた場合だけではなく、人から責められた場合でも同じです。私たちは、怒られたり、
馬鹿にされたり、皮肉を言われたりすると、心を閉じる癖がついていますが、それは絶対に
間違っています。たとえ自分にとって嫌なことを言われたとしても、それが事実であるなら、
へりくだってその事実を認めるべきです。それでも、私たちは絶対主の前に生きていますから、
落ち込むのではなく「こんな罪人のために、イエス様が贖いをして下さったのだから、イエス様に
在って、何とかそこから立ち上がって行来ます」と、気持ちを変えて行くべきです。
その時には、自分の努力に根拠を置くのではなく、絶対主を信じた者として、「私は、事実弱い者
で無力な罪人です。それでも、イエス様の救いをいただきましたので、絶対主に在って何とか
よろしくお願いします」という心で、前に進んで行くのです。これが、私たちの正しい信仰の
あり方です。
(結) こういうわけで、悪魔から弱さをつつかれた場合も、人から弱さをつつかれた場合も、
それに対して私たちが心を閉じたら終わりです。悪魔からの声も、人からの指摘、お叱りも、
あえて心を開き、へりくだって聞かなければなりません。そこから逃げてもいけないし、逆に
反発してもいけません。私たちがなすべきことは、たとえ自分にとって嫌なことを言われた
としても、それが事実なのですから、心を開いて、へりくだって受けとめて行くことです。
それが、砕かれた悔いし心です。この「砕かれた悔いし心」を持って初めて、絶対主を見上げて
何とか踏ん張って行こうとする、新しい信仰の生き方が始まります。
どうか、この砕かれた悔いし心を私たちの心として、新しい歩みを始め出しましょう。
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