(起)マルコの福音書8章33、34節の御言葉から、「自分の路線を砕き、全能主に懸けて行く」
ということを学んで行きたいと思います。
(承) さて、29節を見ますと、「あなた方は、わたしを誰だと言いますか」というイエス様の
問いに対して、「あなたこそキリストです」と、ペテロがはっきりと答えています。しかし、
この時のペテロは、「罪人のために十字架にかかり、自分たちの罪を贖って下さる魂の救い主」
という天的な理解を持っていたわけではありません。むしろ、「私たちの国を再興し、ローマの
支配から解放して下さる救い主」という、地上的な理解を持って答えました。だから、「人の子は
必ず多くの苦しみを受け・・・殺される」と話されたイエス様に対して、「そんなことがあっては
困ります」と、イエス様を諫め始めたのです。するとイエス様は、「サタンよ!引き下がれ。
あなたは全能主の方に心を向けないで、人の方に心を向けている」と言ってペテロを叱り、
「誰でも、わたしについて来たいと思うなら、自分を徹底的に否定して、自分の十字架を負って、
わたしに従って来なさい」と言われました。すなわち、「わたしは、『ローマの支配から解放して
ほしい』という、あなた方の地上的な願いを叶えるために来たのではないのです。あなたが
抱いているイメージは間違っています」と指摘し、「自分のイメージ、自分の考えを徹底的に砕いて
否定しなければ、わたしに従って来ることはできません」と、はっきりと語られたのです。
(転) さて、このことは、私たちにも当てはまるメッセージです。どういうことかと言いますと、
私たちは子どもの頃から、「自分の考えをちゃんと持って、生きて行きなさい。」と教育され、
自分の頭で考えて正しい判断ができるようにと、学校でいろいろと学んできました。しかし、
それはどこまでいっても、「目に見える地上的な価値観」を土台とした教育で、人間の都合を
優先した考えです。私たちはイエス様を信じ、死んだあと永遠の世界があることを知りました。
ですから、クリスチャンになった今、私たちは、この地上で生きて行く価値観ではなく、永遠の
世界で通用する生き方を学び、そこに基準を置いた生き方に変えて行かなければなりません。
これは、イエス様がペテロに求められたことと同じです。すなわち、「人の方に心を向けないで、
全能主の方に心を向けなさい。」と言うことです。それは、「全能主に懸けて行く生き方」です。
その生き方は、子どもの頃から持ち続けてきた、わがままな人間中心の考え、損得勘定の生き方の
路線ではなく、自分を徹底的に否定した、霊的な考えに基く生き方に変えて行かなければ
なりません。なぜなら、人間中心の生き方では、全能主のお考えと自分の考えが違った場合、
「自分の心がついて行かないから」と言って、全能主のお考えではなく、自分の思い通りの道に
進んでしまう恐れがあるからです。そうなると、最後までイエス様に従って行くことはできません。
「イエス様を信じています」と口では言っていても、いざ自分にとって嫌なことや、辛いことが
起こった時、信じる心はどこかへ飛んで行ってしまいますから。だから、「自分はこうしたい、
このように生きたい」と思う人間中心な考えでは、今まで当たり前の権利として持っていた「自分の
路線」を砕くことが出来ません。この「自分の路線」というものは、「砕くこと」はしても、完全に
無くすことはできないものです。生まれつき罪人ですから。しかし、たとえ持っていたとしても、
自分の意志で、それを砕いて横に置くことはできます。そして、どこまでも全能主を信頼し、
全能主のお考えに従う道を選択しょうとすれば出来るはずです。これは、ずっと子どもの頃から
やってきた自分勝手な手っ取り早いやりかたではなく、どこまでも全能主の方に心を向けて行く、
全能主にすべてを懸けた生き方です。私たちは、たとえ自分が損をしても、命を失うことが
あっても、全能主のお考えに従って生きて行くのです。クリスチャンは、全能主の手の中にあって
永遠の命が与えられているのですから、自分の考えや主義主張は全て横に置き、砕いてしまって
良いのです。しかし、それを砕いてしまうと「何でもかんでも言いなりになってしまう。そんなの
人間の生き方じゃない」と思うかもしれませんが、私たちは人間的な生き方を追究しているのでは
なく、全能主の御心に従って生きて行く生き方を追究し、全能主の国と全能主の義を求めて行くもの
です。だから、自分の路線は砕き、私たちの心は全能主に向けて行けば良いのです。
(結) こういうわけですから、私たちが今まで大事にしてきた自分のこだわり、自分の思い、
自分の主義主張、自分の生き方の路線は、全て砕くべきです。そして、「全能主に懸ける」と定めた
生き方に変えるべきです。イエス様が、「自分を徹底的に否定して、わたしに従って来なさい」と
言われたのは、「度毎に砕いて、従って来なさい」という意味です。私たちは肉がある以上、自分の
思い、主張を無くしてしまうことはできませんが、度毎に否定し、度毎に砕いて行くことはできます。
どうか、これを定めて始め出しましょう。そして、「自分の路線を砕き、全能主に懸けて行く」と
定めた以上は、「自分の命を失うことさえも覚悟して、主に従います」という殉教の道を最後まで
通して行こうではありませんか。
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