(起) ヤコブ書2章17節の「主を信じる心も行いを伴わなければ、それだけでは死んだものです」
という御言葉から、「自分を罪に定めて責任を取る世界に飛び込み、その行いを始める」という
ことについて、学んで行きたいと思います。
(承)さて、ヤコブは、この手紙の中で、「行いのない信仰は死んだものだ」と、はっきりと
語っています。その御言葉通り、ただ口先で「信じている」と言っているだけでは、全能主も、
本当に信じている者として認めてはくれません。信じていることが、行いを通して明らかに
なって初め、「確かに信じたのだな」と全能主は確認されるのです。そのことは、アブラハムの例を
通して、はっきりと語られています。アブラハムは、「あなたの子孫は、星の数ほど増え広がって
行くでしょう」と全能主から言われ、それを信じました。しかし、全能主はその後で、ご自身の
言葉を本当に信じているかを試すために、アブラハムに、「ひとり子イサクを献げなさい」と
言われたのです。アブラハムにとって、イサクを献げて殺してしまったら、「あなたの子孫は、
星の数ほど増え広がって行く」と言われた全能主の言葉が、その時点でご破算になってしまい
ます。だから、「それだけは出来ません」と思うのが普通です。しかし、アブラハムは、全能主を
本気で信じていましたので、本気で信じている心の証として、「どんなことがあっても、
全能主を裏切ることはしない」と言って、自分の愛するひとり子を、全能主にお献げしようと
したのです。その主を信じる「行い」によって、アブラハムは全能主に受け入れられ、義と
認められたのです。
(転)では、私たちに求められている「行い」とは何でしょうか。それは、「罪人だと認めた者の
行い」です。私たちは、「生まれながらに罪人であることを認めて、遜って行く」ということを
学んできました。そのことは、長い間教えられて来ましたので、自分が生まれながらに罪人で
あることは、誰しもが充分頭で分かっていることです。しかし、もし心底、分かっているなら、
「罪人だと認めた者の行い」が表れてくるはずです。その、「罪人だと認めた者の行い」とは、
何かと言いますと、生まれながらに原罪を持った罪人は、救われたとしても失敗をし、罪も犯し
ます。ですから、当然怒られ、恥も掻きます。しかし、怒られるのが怖くて言い訳したり、
逃げ出そうとはしないのです。なぜなら、原罪の贖いがありますから、罪を犯したからと言って、
地獄へ行けとは言われないからです。ですから、「自分の失敗を正直に罪に定め、新たな気持ちで
やらせて下さい」という遜った気持ちを持つのです。これが、「罪人だと認めている者の行い」
です。しかしながら、今の私たちの現実は、罪を指摘されると、ムッ-としたり、またすぐ
弁解したり、他人の所為にして、しらを切って逃げ出したりして、自分の罪の責任から
逃れようとします。その行為は、生まれながらの罪人だと言う事を認めていない行為です。
本当に自分は罪人だと認めているのなら、いざ怒られた時には、「言い訳なしで、自分が間違って
いました」と、断罪されることは当然だと受け止めて遜ります。ですから、「罪に定める行い」
というものは、それを認める潔さにあります。それをしないのは、普段から、生まれながらの
罪人だと言いながらも、頭だけの思いで、心からそう思っていないからです。要するに、それが
「行いのない信仰」であり、死んだ信仰です。ですから、御国に繋がりません。全能主の前に、
「私は罪人です」と言うだけなら、誰でも出来ます。悪魔でさえ、全能主の存在を知って
身震いしていますが、なお逆らい続けているのと同じです。私たちは、自分が罪人だと分かって
いるなら、逆らわずに認める行いがあって、その通り認めていることになります。そこに行いが
なければ、単なる口先の言葉に過ぎません。ですから、本気で罪人であるというなら、自分の罪を
指摘された時、それをそのまま受け止め、たとえ他の人も関わっていたとしても、自分が当事者で
あることには間違いないのですから、「自分が罪の責任を取ります」と言って、潔く報いを受けて
行くべきです。しかし、クリスチャンでさえ、その報いを受けるのが怖くて損得に走り、
噓をついてまで、他人の所為にするのです。こうして報いを受けとめずに逃げて行くのを
癖にしているので、「罪人だと認めた者の行い」がないのです。それを当たり前にしていては、
いつまでたっても全能主からの赦しは来ません。逃げずに自分の罪の報いを受けて行く勇気を
もって、認める世界に飛び込むのです。それを自分の意思でやるのです。しかも、時間を置かずに
自分を庇おうとする思いを砕いて、自分で自分の罪を裁き、自分で責任を取る世界に飛び込むの
です。私たちは、この純粋な選択を勇気をもって実行して行かなければなりません。
(結) そういうわけですから、私たちがまずすべきことは、自分自身を庇う思いを砕き、
「自分が間違っていました」と素直に認めて行くことです。そして、怒られる惨めさを受け留め
つつ、なおそこに踏み留まり、「もう一回やらせて下さい」と、遜りの心を表わして行くの
です。それが、罪を認めた者の姿勢です。そこで、反抗的な態度を表したり、「自分は出来ない
から」と言って、自分の弱さに逃げ込んでしまえば、原罪を持った罪人であることを認めない
ことになり、ゲヘナの裁きを待つだけになります。それはもう止めましょう。私たちは、原罪の
罪の責任をイエス様が取って下さったのですから、この地上での報いぐらいは、正直に認めて
受けて行くべきです。その報いを受けた者は、全能主から、「天で責任を取れ」とは言われない
のですから。私たちは、今砕くか、あるいは、天の裁きの時に責任を取らされるかのどちらかです。
天で責任を取れと言われたら、ゲヘナです。だから、今の地上にある時は、逃げずに罪に定めて、
その「行い」を始め出して行きましょう。
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