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2017年2月19日

   生まれながらの罪人は、全てのことを
  全能主に助けてもらって事を行っていく
 

第Ⅰペテロ1:18~21

(起)第Ⅰペテロ1:21「あなた方の信仰と望みとは、全能主にかかっているのです」という

御言葉から、「クリスチャンの生き方は、全て全能主にかかっている」事を学び、「生まれながらの

罪人は、全てのことを全能主に助けてもらって事を行っていく」ことを、学んで行きたいと思い

ます。


(承)さて、全能主である天の父は、イエス様を罪人の贖いの為に、この地上に遣わして

下さいました。しかし、もし全能主がその意思を働かせて下さらなければ、イエス様が救い主として

この地上に来られることはなく、私たちはずっと罪の中に捕らえられたままで、ゲヘナの燃える

火の池の中に投げ込まれていた者でした。しかし、全能主の御心によって、イエス様が送られ、

救いを実現して下さったことによって、私たちは罪の贖いがされ、天に希望を持つものとされたの

です。ですから、
私たちが今、イエス様を信じる信仰を持って生きて行くことが出来るのは、

救い主イエス様をこの地上に送って下さった全能主のおかげです。まさにこの御言葉どおり、

「私たちの信仰と望みは、全能主にかかっている」のです。ハッキリ言えば、救いは自分にかかって

いるのではないということです。
しかし、信じた後の歩みを見て行くと、第Ⅱペテロ1:5~9では

「あなた方の主を信じる心に徳を加え、徳に知識を…加えなさい。・・・これらのものを

備えていない者は、…自分の以前の罪が清められたことを忘れています」とあります。

ですから、ここを読んでいくと、「この通り行っていかなければ、自分の罪が清められては

いかない」と思い込んでしまい、救われた者は、ここに書いてある通りに良き行いをすることに

よって自分の罪を帳消しにし、罪から清められた自分を表して行かなければならないと考えてしまう

のです。ところが、私たちはイエス様を信じた後でも、多くの罪を犯し続けています。すると、

「このままでは天に希望を持つことは出来ない」と思い、ついつい弟子たちさえも負い切れなかった

律法を守ろうとして、偽善者ぶってしまうのです。しかし、それは全能主の前には決して

受け入れられません。なぜなら、この地上でどんなに良き行いをしたとしても、私たちの罪が消えて

無くなってしまうことはないからです。もし、私たちが自分の力で良き行いをすることによって罪を

帳消しにすることが出来るのなら、全能主はイエス様をこの地上に送る必要はありませんでした。


(転)では、私たちはこの地上にあってどのように生きて行けばいいのでしょうか。

最低限言えることは、たとえ良き行いをしたとしても、「自分が罪人であることを棚上げにしては

いけない」ということです。罪人であるという事実は変わりませんので、罪人である自覚は、

一生涯持ち続けて行かなければなりません。しかし、救われた者として、「一つでも二つでも、

全能主の御心に適うことをして行きたい」という願いは正しいことです。なぜなら、私たちは

イエス様の故に、全能主にあって生きる者とされたからです。だから、ここに書いてあるように、

徳を加えて行く必要は確かにあります。でも、私たちはそれを自力で出来るでしょうか。絶対に

自力では出来ません。だから、それはやらせてもらうしかないのです。もし、全能主の助けもなしに

良きことを行い、清い人間になって行けるなら、私たちのためにイエス様が死ぬ必要はなかったの

です。イエス様がおいで下さったのは、私たちが自分の力ではどうにも出来なかったからです。

ですから、もしその中で、一つでも二つでも良き行いをすることが出来たとしたら、それは全能主の

助けがあったから出来たことであって、自分の努力の結果ではないのです。こうして、助けがあって

やらせて頂いたのなら、私たちは決して誇ることは出来ません。私たちが地上で全能主の御心に

適った働きは、すべて全能主がやらせて下さることであって、自分の力で出来たものは一つも

ありません。すべてが全能主の御心の中で助けを受けて、全能主がさせようと思われることは

出来ますが、全能主がさせようと思われなければ、たとえ正しいことでも私たちにはできないの

です。それが、御心の適うことだと確信したとしても、私たちの願いだけでは不可能です。


(結)ですから、最初にお話ししましたように、「私たちの信仰と望みは、すべて全能主に

かかっている」ということです
そこで、私たちに言えることは、「自分の力では何も出来ない

罪人です」という事実だけです。そんな罪人でも、イエス様の贖いを受けることが出来たの

ですから、それは、ただ恵みによって天に上げて頂ける者とされたということです。ですから、

私たちは遜って全能主を見上げて行くのです。どうか、この土台に立って下さい。たとえ良き行いを

したとしても、それは全能主によってやらせていただいたに過ぎません。私たちは「ついつい

全能主の御心に適うことをやりましょう」と言ってしまいそうですが、そうではなく、

やらせてもらうのです。どうか、「自分は罪人だから、全能主に助けてもらうのだ」という土台に

立って、全能主の御心に適うことを、一つでも二つでもやらせて頂きましょう。
なぜなら、私たちの

信仰と望みは、すべて全能主にかかっているからです。
 

 


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