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2017年2月12日

『救われたクリスチャンの生き方』

Ⅰテモテ1:3~20

(起) 第Ⅰテモテ1:15の「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さった

という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに足るものです。私は、その罪人の頭です」

という御言葉から、「救われたクリスチャンの生き方」について学んで行きたいと思います。


(承)さて、パウロさんが15節で語った内容は、私たちが信じた時の原点です。私たちは

イエス様を信じた時に、「自分は、心底罪人だ」と分かって信じました。だから、「こんな

罪人を救うために来て下さったイエス様に、ありがとうございます」と言って、イエス様を

信じて救いを受け取ったのです。そして、
「こんな自分は心底罪人です」という現実は、

信じる前も、信じた後も変わっていません。
たとえ救われた者となったと言えども、

罪を犯さない義人になった訳ではありません。だから、もし私たちが失敗し、過ちを犯したなら

「その通りです。自分が間違っていました」と素直に認めて行かなければなりません。

それが、罪人である者の誠実な態度です。ところが、私たちの心の奥底には、クリスチャンに

なると何か、「自分が罪人であることを認めてはいけないような気持ちになる」のです。

それは、なぜでしょう?多くのクリスチャンは、救われた者は、罪を犯さない者になると

勘違いしているからです。そして、クリスチャンは正しい者でないとキリストの証にならないと

思っているからです。しかし、現実は、以前と同じように罪を犯しています。なぜなら、

救いは、終わりの時に現されるものだからです。ですから、私たちはこの命が終わるまでは、

この罪を持ったままの罪人です。だから
、もし「クリスチャンとはどういう人」と聞かれた

なら、「罪人であることを自覚している者です」と正直に答えたらいいのです。


(転)では、こんなクリスチャンが、「なお正しい者にならなければならない」と思い続ける、

そのこだわりはどこから出てくるのでしょうか?それは、「子供の頃からの躾によって、

良い子になろうといろいろ我慢して来たものが、こだわりとなっているからです。特に、

クリスチャンになると、そのこだわりはますます強くなり、イエス様を信じた多くの人たちは、

「過去は罪人だったけど、イエスを信じて自分は新しくされたのだから、これからは聖書に

書いてあるような正しい人間になって行くべきだ」と思ってしまうからです。また、自分の中に

「良い子であろうとしてきた。我慢してきた。努力してきた」というこだわりを崩されたくない

という思いが、心の奥底にあるからです。だから、罪を指摘されると、「そのとおりです」と

素直に認めることが出来ず、「なぜ、そこまで怒られなくてはいけないの?自分は、一生懸命

正しく歩んで行こうとして来たのに」と、その部分だけを見て、実際に自分勝手な行為を

してきたにも関わらず、自分の罪を素直に認めることをしないのです。これは、我慢してきた

という誇りを傷つけられたくないからです。これこそが、全能主の前にある傲慢の罪なのです。

それは、教師が「いくら子供たちに正しいことを教えて来た」としても、実際の自分は、「その教えて

きた通りに、自分はしてきた」とは言い切れないのと同じです。即ち、人は生まれながらに

罪人ですから、いくら人に教える立場にあったからといって、義人であった訳ではないからです。

ですから、人が「良い子にしてきた」という意識は、実は見せかけでしかなく、実のところは、

生まれながらの罪人なのです。決して、全能主の前に正しい人間です誇れません。なぜなら、

腹の中には、「もっと自由にやりたかった。あれもしたかった、これもしたかった」と、

すねる思いがしっかりとあったはずですから。そのすねて、むくれる思いを隠し、我慢して

良い子ぶって来たとしても、それは本音と建前を使い分けて来ただけで、全能主の前には

通用しません。そこで、
私たちの正直な本音は、「自分達は聖書に書いてあるような正しい人間

ではないし、良い子でもない。本当にどうしようもない罪人です」と認めることしかできない者

です。
だからこそ、こんな罪人を救うために、全能主はイエス様をこの地上に遣わし、「人間の罪の

贖いのために死んで来い」と言ってイエス様を送って下さったのです。私たちは、ただその

イエス様の償いの故に、終わりの時に天に上げていただけるのです。それが、今日お読みした

中に書いてある、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さった」ということ

です。そして、パウロさんは、「私はその罪人の頭です」と言いましたが、これはパウロさんが、

イエス様を信じた後に言った正直な言葉です。ですから、私たちが罪人であるという事実は、

イエス様を信じた前も後も変わらないのです。確かに、御国に入れられる時には、罪の体も

罪の心も全部取り去られて、新しい御霊の身体を頂きます。しかしそれは、自分達が正しい人間で

あったからではなく、イエス様の贖いがあったからです。そして、「過去において自分は罪人で

あった」という自覚は永遠に持って行き、その中にあって、へりくだって、全能主とイエス様との

交わりをさせていただくのです。
だから、罪人である自分を、良い子ぶることによって帳消しに

しようとする意識は間違っています
それは天には一つも繋がりません。それはもう捨てま

しょう。しかし、だからといって、わざと放縦の世界に入って行くのではありません。ただ、

罪人である自分を認めつつ、「こんな私ですが、一つでも二つでも全能主の御心に適う歩みを

したいのです。ですから、どうか助けて下さい」という遜りの心を持って、前に進んで行くの

です。そこには、人の誇りは一つもありません。


(結) 私たちクリスチャンは、良い子ぶって生きて行くのではなく、むしろ、「罪人です」

というレッテルを自分の目の前に貼って、全能主の前に歩んで行くのです
それが、救われた

クリスチャンの生き方です。クリスチャンだからといって格好つけたり、良い子ぶる必要は

一つもありません。私たちは初めから「罪人の頭」であったのですから。どうか、このへりくだりの

心を持って、主の御心の中に歩ませていただきましょう。

 

 


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