(起) 信仰の肝を掴み、「砕かれた悔いし心は、自分の罪を直視し、『生まれながらの罪人だ』と、
認めること」から始め出すことを学んで行きたいと思います。
(承)さて、24節~25節を見ますと、「学識豊かなアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は
聖書に精通していた。この人は主の道の教えを受け、霊に燃えて主イエスのことを正確に語り、教え
ていた」とあります。ところが、そのアポロの話を聞いていたアクラとプリスキラは、「アポロの話
では、一番押さえるべき福音の肝が押さえられていない」と感じ、アポロに対して、より正確に
詳しく絶対主の道を説明しました。同じように、私たちの教会でも、「一番押さえるべき信仰の肝が
押さえられていない」と感じますので、より正確に詳しく学びたいと思います。それはまず、一言で
言うと「砕かれた悔いし心」です。言葉を換えると、「私たちの自由意思を絶対主にあって使う」
ということです。どういうことかと申しますと、私たちの命は絶対主から与えられました。それは、
私たちの自由意思も含めてです。だから、私たちの「この命も自由意思も」、絶対主にあって使って
行かなくてはなりません。そのために必要なのは、自分中心に考える心を砕いて行く遜りの心が必要
です。私たちはどこまでいっても被造物ですから、「人間中心のものの見方」による判断は、
間違っています。それは絶対主の上に立とうとした、ルシファーと同じ行為ですから、いくら人間の
常識に立って考えた知恵でも、自分の考えに立って判断することは、絶対に間違っています。もし
その考えを持ち、絶対主と全くかけ離れた所で、自立して、自分の思い通りにするならば、それは
ルシファーの陥った罪を繰り返すことになりますから、ルシファーが裁かれたのと同じように、
私たちも裁かれます。そして、イエス様との繋がりは完全に断たれ、交わりができなくなってしまう
のです。だから、どこまでも私たちは、下手に出ながら、絶対主の心に合わせて行く姿勢が必要なの
です。
(転)では、その遜りの心とその姿勢を持つために必要なものは何でしょうか。それは、「自分は
本当に罪人であって、何も分かっていない、箸にも棒にもかからない者ですから、自分のこだわりは
持ちません。」という自覚を持つことです。この心を、クリスチャンは絶対に失ってはいけません。
もし、その心を失ったままなら、たとえ信じたと言えども、天の 御国に繋がることはありません。
それは、ルシファーと同じように自分が絶対主の上に立ってしまうからです。ペテロは、正義感を
もって、自分が正しいと思ってイエス様を諫めました(マタイ16:22)。その時、イエス様は、
ペテロに「サタンよ!退け」と言われたのです。確かに、ペテロさんは、使徒行伝にあるように
用いられていきました。しかし、 彼は悔い改めて後で、全面的に、絶対主の考えに立って行きま
した。私たちも悔い改めて信じたならば、ペテロさんのように、全面的に絶対主の考えに立って
行くべきです。そのために、「自分は生まれながらに罪人です。」というこの自覚を、私たちは
永遠に持ち続けなければなりません。人間は、誰一人として、完璧な人はいません。たとえ能力を
持った人であっても、人に言えない弱点を持ち、必ず汚点を抱えています。ということは、皆、
「自分を誇りたいと思っても、決して誇れない」劣等感を抱えつつ、何とか背伸びをして生きている
のが 現実です。しかし、いくら背伸びをしても、自分自身の劣等感はなくなりません。たとえ
イエス・キリストを信じたとしても、その劣等感を抱えた惨めな自分は変わらないのです。だから、
救われた人間であっても、それはずっと抱えて行かなくてはなりません。自分自身が味わってきた
惨めな経験を思い出すと、その時のことが甦ってきて嫌になり、それを 忘れようとします。でも、
それは決して忘れてはならない現実です。なぜなら、その惨めな自分をイエス様が贖って受け入れて
下さった罪人に過ぎないからです。イエス様は、惨めな部分がキレイにされた人間を受け入れられた
のではありません。私たちのような、惨めでどうしようもない罪人を救って、受け入れて下さったの
です。だから、「劣等感を抱えた惨めな自分」という自覚を持っていて、丁度なのです。それは、
ずっと持ち続けて行くべきなのです。
(結)どうか、この真理に心を留めて下さい。私たちは、自分の罪を直視し、自分の罪に苛まされて
いて丁度なのです。その中で、「こんな自分を受け入れて下さった方のために生きて行きたい」と
いうのが、クリスチャンの生き方です。しかし、そのイエス様のお心を分からずして、自分は
救われて、特別赦された者だから、罪に苛まされる必要はないと 勝手なことを考えては
いけません。自分は、罪赦された罪人のままです。だから、下手に出てイエス様が「やってくれと
言われたことを忠実に聞いて、ただ従って行く」と、定めるべきです。私たちは、救われた現在も
罪を犯し、失敗もします。でも、「だからお前はダメだ」と言って、はね除けられることは
ありません。悔い改める遜りがあるなら、ペテロさんのように、それでも「従いなさい」と言われ、
用いられて行くことが出来るのです。このように、遜ってやらせていただくのが、クリスチャンの
地上での歩みです。どうか、まず自分の罪を直視し、それが自分自身だと認めて下さい。そして、
この信仰の肝を掴んで、クリスチャンとしての歩みを確立して行きましょう。
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