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2017年10月8日

『絶対主の側から物事を見ていく』

マタイの福音書24:15~31


(起) マタイの福音書24章の御言葉から、「クリスチャンは患難時代を当然通る」ということを

心に留め、私たちがこれから患難時代に入って行くにあたって、自己主張を控え、「ちょっと

待てよ」と、絶対主の側から物事を見て行く訓練をして行くことを学んで行きたいと思います。


(承)さて、ここでは、患難時代のことについて、イエス様が順序正しく語っておられることを

見ていきます。まず、4節から14節までは、患難時代の前半について記されています。そして

15節からは、ついに「荒らす憎むべき者」が現れ、聖なる場所に立ちます。その時には、

かつてない大きな患難が起こる(21節)とあります。これは、黙示録を見れば、一目瞭然で、

患難時代の真っ只中に出現する反キリストです。第テサロニケ2:4節を見ると、「絶対主の

宮の中で自ら絶対主のように座して、自分が神だと宣言します。」マタイの24節には、

「偽キリストと偽預言者たちが起こって、数々の大きなしるしや不思議を行い、できれば、

選ばれた人々さえも惑わそうとします」とあります。そして、その後に天変地異が起こり

(29節)、30節で人の子のしるしが現れ、イエス様が天の雲に乗って来られます。

その一連の中で、「人の子は、御使いたちを遣わし、・・・四方からキリストの選びの民を

呼び集める。」(31節)とあり、ここで携挙が起こります。この流れは、黙示録に書かれて

いる流れと全く同じです。ですから、ここではっきり分かることは、クリスチャンは患難時代を

通るということです。ところが、クリスチャンの多くは、「患難時代の前に天に引き上げ

られる」と思っていますが、そのようなことは一つも聖書に書いてありません。
患難時代の前に

携挙があるという説は、初代教会(使徒たちの時代)や、初代教父(使徒たち以降の教会の監督

たち)の 時代、また中世にはありませんでした。ルター、カルヴァン、その他の宗教改革者も

患難前携挙を語っていません。これは、1830年頃になって、イギリスの神学者ダービーが、

始めて説きました。(レムナント誌の久保有政師より)
因みに、ダービーは、フリーメイソンの

ロスチャイルドの東インド会社の傀儡ジョン・ダービです。また、ディスペンセーションの

時代区分の教理は、イエスズ会のラクンザが作り出したもので、ダービーとスコフィールドに

よって広がっていきました。ですから、患難前携挙説は、200年前に出てきた新しい考え方

です。もし、患難前にクリスチャンが携挙されるとするなら、有り難いことですが、逆にクリス

チャンを含め、全人類がすべて患難を通って行くとしたら、患難の前に携挙されると聞いてきた

人々は、患難時代に入って気が狂うことでしょう。黙示録13章7節では「獣は、聖徒に戦いを

挑んで、これに勝つことを許され、さらに、獣にすべての部族、民族、諸国語、民を支配する

権威が与えられた」とあります。これは、今日の生温いクリスチャン達にとっては、都合の悪い

御言葉です。しかし。聖書は、黙14:12で「ここに、絶対主の戒めを守り、イエスを信じ

仰ぐ心を持ち続ける聖徒の忍耐がある」とあるのです。


(転)では、クリスチャンがこれから患難時代に入って行くとするなら、今のうちに訓練されて

おかなければなりません。それは、「自分自身の肉の主張である自己主張を控える」ということ

です。どういうことかと申しますと、患難時代に入れば、誰もが自分の身を守る方向に向かい

ます。クリスチャンであっても、数々の苦難、困難の中に置かれると、段々気持ちが弱くなり、

そのうち耐えられなくなって「もういいわ。ここまで我慢して来たのだ。これでもダメと

言われたなら仕方ない。地獄なら地獄でもしょうがない」という意識が出てくるのです。

そして、その意識を自分の中に持つことによって、信仰を棄てて絶対主から離れようとする

自分自身を正当化するのです。これをしてしまったら確実に地獄だと分かっていながら、

それでも「地獄なら地獄でもしょうがない」と言ってしまう恐ろしさを、私たちは持っている

ということです。そこで、
私たちはその自己主張を引いて、「ちょっと待てよ」と絶対主の側に

立ち、そこで判断して行くという意識を、今つくりあげて行かなければなりません。
「絶対主は

どう考えておられるのか」ということは、聖書をよく読み、絶対主の側から考えれば分かり

ます。黙示録には、「絶対主は、聖徒に打ち勝つ権威を666に与えた」とあります。

ということは、患難時代にあって、「666が聖徒に打ち勝つこと」が絶対主のお考えであり、

私たちは666に負けるのです。しかし、
「負ける」というのは、「信仰を失う」ということ

ではありません。「ただ、地上で、この命を取られる」ということです。
いわゆる、信仰の

故に、殉教することです。命を取られることは、この地上に生きている人間にとっては敗北

です。しかし、私たちには天の御国に入れていただける約束がありますから、命を取られても

敗北ではありません。初代教会のクリスチャンは300年間迫害の中にありました。また、

この日本では、世界で類を見ないほどの迫害が秀吉と家康とその代に続く徳川政権と、

明治政府によって286年間に亘って激しい迫害を受けてきました。実は、
「そのように自分の

命を差し出し、死に至るまで忠実な者たちがいるということを666に突き付ける事」
が、

絶対主の御心なのです。私たちがこの絶対主のお考えを分かっていれば、たとえ患難時代に

あって命を取られることになっても、「どうぞ」と言って命を差し出し、信仰を全うすることが

できるでしょう。


(結)患難時代に入れば、誰だって不安を抱き、自分の思いに捕らわれてしまう危険性は

あります。その思いは、私たちの中から消えることはありません。それを取り除くことも

できません。しかし、
そこで「ちょっと待てよ」と、自分に言い聞かせてみてください。

すると、「絶対主はどう考えておられるのかな。そうか。自分はこのあと天に引き上げられる

のだ。だったら、ここで助かろうとする必要はない。殉教していいのだ」という、絶対主の

側から見た答えが分かるのでしょう。それが分かれば、私たちは苦しみから救われます。

イエス様は言われました。
「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために自分の命を

失う者は、それを見いだします」
と。どうか、この真理に立ってください。いつも私たちを

つまずかせるのは、自分を守ろうとする自己主張です。自分勝手に身を守ろうとする心が、

私たち自身を惑わし、そこに悪魔が強力に働いて「お前は精一杯やったんだ。それで十分だぞ。

それでダメと言われるなら地獄でもしょうがないだろう」と語りかけ、そのように思わせるの

です。しかし、その考えを絶対に口に出してはいけません。口に出す前に、「ちょっと待てよ」

と言って、絶対主の側から見るのです。そうすれば、先程申し上げたように、正しい答えが

見えてきます。どうか、自己主張を控え、「ちょっと待てよ」と、絶対主の側から物事を

見て行く訓練をして行きましょう。
 

 


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