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2017年10月15日

『どこまでもイエス様にあって従い続けていく一途な心』


マタイ福音書25:14~30


(起)タラントの譬え話から、「どこまでもイエス様にあって従い続けて行く一途な心で、救われた

者の歩みを踏み出す」ということを学んで行きたいと思います。


(承)さて、イエス様は、「タラントを分け与えられた三人のしもべ」の譬え話をされました。

この譬えを、初めから見て行きますと、主人は、それぞれの能力に応じて、ある者には5タラント、

ある者には2タラント、ある者には1タラントを与えて旅に出掛けました。5タラント渡された

者は、それで商売をして、更に5タラント儲けました。2タラント渡された者も、それで更に

2タラント儲けました。 しかし、1タラント渡された者は、それを使わずに地の中に隠しておきま

した。そして、長い年月が経って精算を求められた時、5タラントと2タラントの者は、「良い

忠実なしもべよ。良くやった」と言われ、主人に喜んでいただけましたが、1タラントの者は、

「悪い怠惰なしもべよ。・・・この役に立たないしもべを、外の暗闇に追い出せ」と、言われてしまい

ました。今日は、この1タラントの者について見て行きたいのですが、彼の問題はどこにあったの

でしょうか。それは、「自分は1タラントの能力しかないから、こんな自分では主人のために

働けない」と思って、与えられた能力を使わなかったことです。しかし、それは主人の御心では

ありません。主人は、彼に能力がないことは初めから分かっていました。だから、成果の量によって

評価するつもりは更々なく、それぞれが与えられた能力の中で精一杯やったなら、それだけで満足

だったのです。それは5タラントの者と、2タラントの者に対する評価を見れば分かります。

主人は、5タラント儲けた者にも、2タラント儲けた者にも、同じように「良い忠実なしもべよ」と

言いました。だから、1タラントの者も、その与えられた能力の中で一生懸命タラントを用いたの

なら、それで良かったのです。


(転)実は、この譬え話は私たちにも当てはまる譬えです。私たちは生まれながらに罪人で、能力に

乏しい弱い人間です。だから人から相手にされず嫌われ者で、罪の中に生きてきました。そんな

私たちこそが、1タラントの者です。しかし、絶対主はそういう1タラントしか持ち合わせていない

私たちをご存知の上で、私たちを救うためにイエス様を送って下さいました。ですから、
絶対主は、

「私たちが努力して能力を勝ち取り、立派な良い人間になったら救おう」と計画したのでは

ありません。
生まれながらの能力は、自分の努力の結果得たものでは、命を与えて下さった方の

御心の中で与えられていたものであって、それは、人それぞれに与えられるものが違うためです。

それなのに、私たちは自分勝手に「もっと良い賜物を持てば、絶対主に認めてもらえる」と自分

中心に考え、人と同じ能力を求めて、自分の思いを絶対主に押し付けて来ました。しかし、そんな

自分中心な論理では、いくら求めても、それは叶えられませんでした。そんなところに絶対主の

関心はなかったからです。それよりも、絶対主は人が何の取り柄もなくても、イエス様の故に罪が

贖われたことを感謝し、たとえ1タラントしかない賜物であっても主に頼りつつ生かして用いて

行ったならば、絶対主は、「良い忠実なしもべよ!」と評価して下さったのです。
ということは、

生まれながらの罪人は、大きな成果を表すところに価値があるのではなく、5タラントのしもべも、

1タラントのしもべも、同じ罪人に変わりありませんから、絶対主の見る所は、救いを頂いた

罪人が、遜って与えられたタラントの中で、「主に忠実を表すかどうか」を見ておられたという事

です。
ならば、私たちは、残されたこの地上の人生を、人と見比べて競争するのではなく、たとえ

能力がなくても、イエス様の役に立つならそれでいい」という気持ちを持って従って行くなら、

それを喜んで下さるのです。この生涯を通した人が、あのマグダラのマリヤさんでした。マグダラの

マリヤさんは、姦淫の現場で捕えられ、人が見ている前で、石打ちの刑で裁かれるところでした。

ところが、イエス様は彼女を裁かれませんでした。この経験は、彼女にとって驚くべき救いだったの

です。だからそれ以降、彼女は「こんな罪人の私に憐れみをかけて下さったイエス様に、生涯イエス

様が行かれる所なら、どこへでも着いて行きます。何でもいいですから、私にできることをやらせて

下さい」という気持ちを持って従って行ったのです。彼女は、「みんなに認められる人間になって、

それからイエス様に仕えて行きたい」と願ったのではなく、罪人のままの自分を抱えつつ、イエス様

に従って行ったのです。イエス様にとって本当に嬉しかったのは、キリストの救いを知ったマリヤの

一途な心でした。

(結)ですから、私たちも、「自分には一タラントほどの能力しかない。自分は弱い人間だ」という

思いに打ちのめされることがあったとしても、キリストの前では、そんなタラントの多い少ないは

関係ないのです。確かに人間的な能力には差があります。しかし、キリストを愛する気持ちに差は

ありません。ですから、イエス様に精一杯従って行きたいと思う処には差別はないのです。ここに、

救われた者の新たな希望があります。自分はどうしようもない罪の性質を抱え込んでいる者でも、

イエス様にひたすら心を向けて、イエス様に在って一生懸命やって行くなら、その一途な心を

イエス様は喜んで下さるのです。
ただし、「イエス様に頼ればすべてが上手く行く」というわけでは

ありません。私
たちがこの地上にある限り、罪人であることには変わりはありませんから、失敗も

当然付いてきます。失敗をすれば怒られ、情けない自分に落胆するでしょう。しかし、それでも、

終わりではありません。
それなら、もっとイエス様に頼って、もう一度やろうとすれば良いこと

です。
私たちはたとえ失敗をしても、どこまでもイエス様にあってチャンスは与えられています。

どうか、この一途な心を持って、救われた者の歩みを踏み出して行きましょう。

 


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