(起) 信じた者が「全能主と繋がる秘訣」について、学んで行きたいと思います。
(承) さて、ルカ9章23節を見ますと、「わたしについて来たいと思うなら、自分を徹底的に
否定して、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」とあります。この「自分を
徹底的に否定して、自分の十字架を負う」ということは、分かりやすく言うと、「自分の死を
負って行きなさい」ということです。しかし、それは単なる死ではなくて、辱めを受け、
「罪人として完全に堕ちきった状態になる」ということです。実は、その歩みを実際にされた
のがイエス様です。イエス様は、人の罪の報いを代わりに負うために、鞭打たれ、拷問より
激しい不当な苦しみを受けられ、尚且つ、瀕死の状態で十字架を担がされて、ボロボロの姿を
人前にさらけ出されました。それは、人の子として完全に面子を失った悲惨な姿でした。
その前夜のゲッセマネの園では、「どうか、この杯を過ぎ去らせて下さい」と、血の汗を
流しつつ父に祈られたのです。イエス様は、それほどの恐れと、逃げ出したい程の恐怖に
襲われていたのです。それでも最後には、「父の御心のままに」と言って、すべての辱めを
受ける道を選ばれました。
(転) では、イエス様がそこまでされたのは、何のためでしょうか。それは、ひとえに私たちの
罪の贖いのためです。「罪の贖い」ということは、私たち罪人が受けるべき報いを、イエス様が
代わりに受けて下さったということです。実は、本来ならその苦しみを受けるのは、私たち
自身であった筈です。ならば、罪を犯し続けている私たちなら、今でも、その辱めを自分自身が
受けて当然です。ところが、多くの人たちは、「そのような辱めを受けないようにされたのが
救いだ」と勘違いしています。だから、「自分は罪人だ」と頭では理解していても、罪人として
恥を受けることや、メンツを失って惨めな状態を味わうことを嫌っているのです。しかし、
それは絶対に間違っています。私たちが受けた救いは、自分の罪の報いをこの地上で受けないで
済むようにされたものではありません。救いというのは、罪人が、永遠の呪いの中に
投げ込まれるところからの救いです。ですから、過去のクリスチャンは、キリストの故にたとえ
拷問を受けて、苦しみを受けることがあっても、永遠の救いに希望を抱いて殉教して行ったの
です。ですから、私たちもこの地上で犯した自分の罪の報いぐらいは、当然の事として受けて
行くべきです。キリストの救いは、罪人としての自覚を持っている者に対する救いであって、
罪人が罪を行っても、罪人でないように装って、自分のメンツを守られていく為の救いでは
ありません。罪人が永遠の救いを頂いたのなら、この地上で犯した罪の報いぐらいは、どんなに
惨めな状態を味わう事であっても、受けるべきです。それが、罪を認めた人間の正直な罪人の
証です。キリストの救いは、罪人を救うためですから、自分を守って、罪の報いを受けようと
しない者には与えられません。自分を義とするものは、自分の力で自分を救ったらいいのです。
イエス様は、自分を義とする者の為に、あれだけの苦しみを受けて下さったのではありません。
ならば、私たちは、罪人である自分が受けるべき報いから逃げてはいけません。その報いを
受けることから逃げる者は、自分が罪人であることを否定することなのです。ここに、私たちが
全能主と繋がらない原因があります。全能主と繋がるためには、イエス様が味わわれたように、
人前で恥をかき、メンツも何もかも失い、堕ちきった状態になることです。その苦しみ、惨めさ
を負って初めて、罪人であるという自分の現実を認めたことになるからです。その者に対しては
全能主は、「お前は、人前で自分の罪の恥を受けた。罪人であることを明らかにした。
それでいい。なぜなら、そのお前のためにイエスが死んだのだから、イエスの贖いの故に
わたしはお前を赦す」と言って下さいます。そこで初めて平安を味わい、全能主との繋がりが
生まれてくるのです。
(結) ですから、全能主と繋がる秘訣は、私たちが罪人としての報いを受けて、完全に堕ち切り
続けることです。全能主は、私たちが恥も外聞も捨てて、完全に罪の報いを受けたその姿を
見て、我が子を殺してまで罪人を救おうとされたことを、「よかった」と安堵されるのです。
だから、罪人である私たちが、頭では「罪人です」と言いながら、自分を守って罪の報いを
受けようとせず、完全に堕ちきる手前でメンツを保って逃げるなら、その人は天の御国には
繋がりません。私たちは罪人ですから、罪の報いとして泥を被って行くのは当然のことです。
その苦しみ、惨めさを負い、完全に堕ちきって初めて、全能主からの赦しと平安が来くるの
です。この経験を今なお味わっておらず、恥をかくことから逃げている人は、どうか、「悔いし
砕けた心を持って、自分を裁きの許に委ねましょう。」この経験は地上にある限り、続けて
行くものです。なぜなら、救われても罪が清められるのは、御国に引き上げられた時だから
です。この地上にあっては、死ぬまで罪人です。ですから、罪を指摘されたならば、
その度毎に、堕ちきった自分の姿を見て、「そのとおりの者です」と受け止めるのです。
そうすれば、全能主は「それでいい。罪人であるところからもう一度始めなさい」と言って
下さるのです。どうか、この真理に目覚めて、全能主に繋がる歩みを始め出そうでは
ありませんか。
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