(起)ピリピ3:15節から「成熟した者の歩み」について、学んで行きたいと思います。
(承)さて、クリスマスとは、絶対主の御子イエス様がお生まれになった日を記念して、
主に礼拝を奉げる日ですが、そのイエス様は、今から二千年前にベツレヘムの馬小屋でお生まれに
なりました。なぜ、絶対主の御子であるお方がベツレヘムの馬小屋でお生まれになったので
しょうか。それは、当時、ローマによって全世界の人口調査が行われ、それぞれが自分の
生まれ故郷に帰って登録することになりました。そこで、ヨセフさんたちも登録を済ますために
ベツレヘムへ帰って行ったのです。その時、マリヤさんは既に身重で、産み月になっていましたの
で宿屋に泊まりたいと願ったのですが人が溢れていて、どこも一杯で泊まることが出来ません
でした。そこで、休める場所求めると、馬小屋しかありませんでした。二人は馬小屋で休むことに
なり、その時にイエス様が生まれたのです。しかし、馬小屋というのは、決して綺麗な場所では
ありません。現代の馬小屋なら、きちんと掃除もされて、きれいな厩舎もありますが、当時の
馬小屋はひどく汚れた家畜小屋で、御世辞でも綺麗と言えるような場所ではなかったのです。
その馬小屋で、絶対主の御子イエス様が誕生された訳です。
(転) では、絶対主の御子イエス様が「馬小屋」で生まれたということは、何を意味している
のでしょうか。実は「イエス様が馬小屋で生まれて下さった」ということは、「イエス様が罪深い
私たちの心の中に来て下さる」ということのしるしでもあったのです。どういうことかと
申しますと、確かに、馬小屋というのは、とても綺麗と言える場所ではありませんが、それでも、
私たちの心の中の醜さ、汚れほど、汚くはありません。私たちの心の中の汚れの方が、
馬小屋よりもよっぽど汚いのです。しかし、そんな汚い私たちの心の中にイエス様は
入って下さり、私たちの中で生きて下さるということのしるしであったのです。
(ガラテヤ2:20)。なぜなら、絶対主は、そういう汚れた罪人のために、御子イエス様を
この地上に送って下さったからです。イエス様は、人間の汚れた罪の贖いをするために、
馬小屋という汚い場所で生まれ、十字架にかかって私たちの罪の身代わりとなって死んで下さった
のです。普通なら、一番嫌な仕事ですが、イエス様はその仕事を絶対主の一言で、
「死んで来い」と言われ、やり遂げて下さいました。そのイエス様のおかげで、私たちは救われ、
今天に国籍を持つ者として、希望を持つことが出来るのです。その希望はどういう希望かと
いうと、地上の命を閉じた後、罪の体を脱ぎ捨て、罪の心も取り去られて、御国にふさわしい
御霊の体を頂いて、天に上げられるという希望です。今は、罪に汚れた自分というものを現実に
持っていますので、「こんな者が本当に罪のない体に変えられるのかな」という気持ちも
出てくるのは当然でしょう。しかし、二千年前にベツレヘムの馬小屋で生まれた御子が、
メシヤであったという事実が証明されており、そして、現に馬小屋より罪汚れた私たちの
心の中に、イエス様が生きて下さっているという現実があるのですから、この後、「罪の体を
脱ぎ捨て、罪の心も取り去られて、天に迎えられる」というイメージを持っても良いのです。
実は、このイメージを持って生きて行くのが、成熟したクリスチャンの生き方です。いつまでも、
生まれながらの惨めな自分を見て「ダメだ」と、うなだれていく人生じゃなくて、「自分は、
何とかして死者の復活の状態に達したい」(ピリピ3:11)という心を持って、新しい心と体に
変えられるイメージを目指して歩んで行くのです。それが、ピリピ3章に書いてあります。
パウロさんは、「私はすでに獲得したなどとは思っていません。ただこの一事に励んでいます。
すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって懸命に努力し、キリスト・イエスにおいて上に
召して下さる絶対主の栄冠を得るために、ひたすら目標を目指して走っているのです」
(ピリピ3:13~14)と言いました。私たちも同じです。いつまでも罪深い自分を見て、
「こんな自分ではダメだ」と、罪深い自分だけを見るのではなく、救われたものとして死者の
復活に達したいと前向きにイメージして懸命に努力していくのです。
(結) ですから、私たちはもう悪いイメージばかりを抱いていてはいけません。なぜなら、
イエス様が馬小屋で生まれて下さったという事実は、馬小屋よりも汚い私たちを救って下さり、
天に迎えて下さるという事のしるしが、クリスマスであったからです。ですから、そのしるしの
故に、私たちは前向きに考えても良いのです。古い自分でごちゃごちゃ考えるのはやめて、御子の
故に全く新しい姿に変えられて天に引き上げられて行くイメージを抱いて、歩みを続けて
行こうではありませんか。これが、成熟した者の歩みです。そして、願わくば、御霊の満たしを
受けて、肉の思いを覆うほどの御霊の心を持って、これから絶対主の働きに使って頂こうでは
ありませんか。
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