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2016年 NO.567 |
怒られて、へり下れる努力は、主にあってする努力です。しかし、怒られて落ち込み 暗くなる努力は、人の肉の努力です。この肉の努力によって御国に繋がろうとしても、 御国には結び付きません。なぜなら、人の努力には、自負心が養われているからです。 この自負心を持った者に、キリストの十字架の贖いはありません。贖いは、あくまで 「人の力ではお手上げです」と自覚した罪人を対象にしているからです。しかし、この 競争社会では、人の努力がもて囃されます。それは、人の能力を崇め、人の功績を尊び、 人の手柄を重んじて、人の力で義を得ようとしているからです。この人の力で義を立てても 絶対主と繋がりません。しかし、「人の努力が何故いけないの!」と、クリスチャンでさえ 反発して来ます。しかし、これは律法学者・パリサイ人の反発と同じで、イエス様は 「律法学者やパリサイ人の義に勝らなければ、決して天の御国に入ることはできません。」 と言われました。(マタイ5:20)それは、律法学者・パリサイ人の義では通用しない ということです。むしろ、人が自分で救いを得ようとするなら 完全にならなければ なりません。いくら努力しても、生まれながらの罪は消え去りません。なのに、 クリスチャンで さえ自分の義を立てて、あえて行いを重んじ、自負心を育てているの です。それは、怒られた時に、素直に謝ることが出来ない自分、まだ罪を素直に認めれない 自分の中に現われています。この行いを重んじる心は、「悪魔の蒔いた罠」です。 いかにも人間の自負心をくすぐりますが、しかし悪魔は完全であったにも関わらず、 地に落とされました。それは、傲慢な心を絶対主が拒否されるからです。この人の努力を もて囃す必要悪が、人の自負心を育てていくのです。しかし、クリスチャンにとっての 正しい努力があります。それは、いつも主に聞いて行う努力です。それなら、たとえ成果が 出たとしても、へり下る心は失わないでしょう。同じ努力であっても、人間の努力と主に あってする努力には、違いがあります。主にあって生きようとする努力は、主に聞いて 行う努力です。しかし、人の努力は、自分の頭の判断に頼った努力です。その努力は、 とんでもない方向へ誘い、ゲヘナに導くものです。人の自負心は御国に繋がらないことを 悟りましょう。 |
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