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2016年 NO.563 |
「愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。」 (第Tコリント15:58)とあります。なぜでしょう? それは、全力でするところに信じる心が現わされるからです。臆病風に吹かれた無気力な 者を、主は助けようとは思われません。私たちは、何事をするにも主の栄光のためにすべき です。「あなた方は、飲むにも食べるにも、また何をするにも、すべて絶対主の栄光のため にすべきです。」(第Tコリント10:31)とあります。すなわち、地獄の裁きから 救われて、天の御国に入れてもらえる者とされたなら、全力で主の為に生きたいと思うはず です。手を抜いて、心を小出しにして、主に懸ける心のない人は、「罪から救われた」という 感謝を表明しようとしない人です。確かに、信じる心を持っても「罪から救われた」という 実感を持てないかも知れません。それは、罪人の救いは、命を閉じた後に味わうものだから です。しかし、救いの実感は、この地上でも味わうことの出来るものです。それは、無力で、 何の取柄もなく、弱い私たちでも、本気で全力を注いで、全能主に懸けて行くなら、必ず 助けてもらえるからです。しかし、「どうせ自分は、生まれながらに能力がないから駄目だ!」 と言って、諦めて努力せず、程々に手を抜いて、 の負け犬根性に留まることになり「信じる者に働く全能主の力」を味わうことはできません。 絶対主は、信じた事によって、どこまでもイエス・キリストに頼って行く スチャンたちを待っておられます。『それが、人間に心を与えて下さった絶対主の心です。』 ですから、主を信じたというクリスチャンなら、全力で主に頼って求めていく姿こそ、 信じる者の姿ではないでしょうか?「諦める」という言葉は、クリスチャンに存在しません。 なぜなら、絶対主の存在は、私たちの命の存在によって明白になっているからです。 絶対主が存在していることは疑う余地のないことですから、どんなに失敗しても、諦めず、 信じ続け、全力を注いで励むのです。助けてもらえなかったのは、絶対主が存在しないから でなく、私たちが全力の信仰を働かせなかったからです。ほどほどの信仰では通用しません。 ありったけの心を注いで、主のわざに励んで行きましょう。そして助けて頂いたという喜び を味わい、救われた者の感謝を表明して行きましょう。 |
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