「底抜け」という言葉は、良い意味でも、悪い意味でも使われますが、霊的な意味での
「底が抜けている」とは、霊的な迷いと曇りのない信仰の表現であり、今の私たちには、
真理を表すピッタリの表現だと思います。なぜなら、キリストの救いに与ったクリスチャン
は、「多くの罪が赦されてしまったからです」(第Ⅰヨハネ2:12)。しかしながら、
真理には両面性がありますので、「ことさらに罪を犯し続けるなら、・・・焼き尽くす
激しい火を待つだけです」(ヘブル10:26~27)、とあるように、罪から救われた者
でも、自分の意志によって失うこともあります。このことは、罪を犯したら、問答無用で、
焼き尽くす火の中に入れられるというのではありません。ただ、「自分の犯した罪を認め
続けて行くなら、絶対主は真実で正しい方ですから、それらの罪を赦し、きよめて下さる」
(第Ⅰヨハネ1:9)とあります。ですから、「ことさらに罪を犯し続ける」とは、
クリスチャンが自分の罪を認めず、「白を切って棚上げにする」クリスチャンのことです。
絶対主は、御子によって人間の罪を贖って下さった以上、罪を認めず棚上げにする行為だけは
嫌われます。しかし、人の現実は、贖いを受けただけで、罪がなくなったわけでは
ありませんので、救われても罪人に違いありません。だから、救われても罪を犯して
しまいます。しかし、絶対主はその事もご存じの上で、「罪を犯したら、それを認めて
その責任だけは取って来いよ」と言われているだけです。なのに、「ことさらに罪を犯す」
ということは、その罪を認めず、責任をとろうとしないことですので、罪人が罪を
認めなければ、キリストによる罪のための生け贄は無効になってしまうのです。なぜなら、
キリストの贖いは、罪を自覚せずに人の所為にして、自分の義に頼っている者を救いに
来られたのではありません。あくまでも、救いは罪に苦しみ、自覚している人間のためです。
だから、「律法によって義と認められようとして、自分の義に立つ者は、キリストから
関係が切られるのです」(ガラテヤ5:4)。このことが分ったら、罪人が罪人であること
を認めて、罪を認め続けて行くへり下りさえあれば、それで良いということが分ります。
これが分れば、ただ恵みに感謝して、自分の罪を認め続けて行く「砕かれた心」だけは
持って行きましょう。クリスチャンの救いは、「この世の命を閉じた時、罪を拭い取って
下さるイエス様によって、御国に入ることです」。ならば、地上では罪人として自覚して
行けば良いので、霊の迷いはなくなります。これが「底が抜けた信仰」です。どうか、罪を
認めた霊的に迷いのない、底の抜けた信仰に立って行きましょう。 |
|
|
|
|