「真理の知識を受けた後、ことさらに罪を犯し続けるなら、罪のための生け贄はもはや
あり得ません。・・・逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を恐れつつ待つことだけです」
(ヘブル10:26)とあります。また、ヘブル6:4〜8でも同じように、「聖霊に
預る者となり・・・堕落した場合・・・遂には焼かれてしまいます。」とあります。
これらの御言にクリスチャンが遭遇すると、「罪を犯し続けていたら、地獄の火の中で
滅ぼされる」と恐れを抱いて律法的になるのは必然です。すると、クリスチャンらしい
人間になってキリストの律法(ガラテヤ6:2)を全うしなければならないと思うように
なります。そして、だんだん律法の虜になって雁字搦めになり、精神的な束縛を受けて、
身動きが出来なくなります。すると「律法によって義と認められようとしているあなた方は、
キリストから関係が切られ、恵みから落ちてしまったのです。」(ガラテヤ5:4)と、
御言にあるように、救いの喜びは完全に消え失せ、「罪から救われた自分は、どこへ
行ったのか」と、分からなくなってしまうのです。そんな中で、パウロは「私はキリストと
共に十字架につけられました。・・・しかし、今私が肉体にあって生きているのは、
・・・御子を信じ仰ぐことによって生きているのです」(ガラテヤ2:20)と言って
います。すなわち、キリストと共に十字架で死んだ者とされたが、「現実の自分は、今
肉体にあって生きている」という事実があるということです。だから、「生まれながらの
罪人である自分は、キリストを信じ仰ぎ、キリストの助けの中で生かされていく。そして、
キリストの救いは、命を閉じた時に味わうのであって、今は罪人のままだから、『罪を
犯したら素直に謝って、怒られに行くのだ。』この地上では、罪の体が贖われるまで、罪の
報いを恐れる心を砕いて、責任を取っていくだけ。その心を絶対主は軽んじられない(詩56
:17)。」と言われるのです。だから、これが罪人の私たちの出来る精一杯の心なのです。
確かにヘブル10章14節では、「キリストは1つのささげ物によって、聖くされた者たちを
永遠に全うされたのです」とあります。ですから信者は、もちろんキリストによって永遠の命
の中に入れられるのは事実です。しかし、だからと言って「ことさらに罪を犯し続けるなら、
・・・焼き尽くす火」の中に入れられるのも事実です。これは聖書に示された真理の
両面性です。罪人は、いくら頑張っても、完全にはなれません。ですから、自分の罪位いは
責任を取って、罪を棚上にせず、告白して悔いて行くべきです。(第Tヨハネ1:9)
地上にある間、人間は罪人のままです。その事実は変わりませんから、信者は主の憐れみの
中で、「砕かれた悔いし心」を持って行くのです。この心だけは、表わして行きましょう。 |
|
|
|
|