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                                | キリシタン武将の方々の生き様を調べて行く時、「キリストを信じる心の故に義を通す」 
 という言葉が、しばしば出て来ます。確かに「大殿はイエス様だ」と言われていましたが、
 
 現実に、「目に見える主人は秀吉であったり、家康であったりします」。ですから、そんな
 
 中で「二人の主人に仕えることはできない。」とありますので、彼らは、「自分が信じた
 
 イエス・キリストに対して義を通そうとしたのか」、あるいは、「自分が仕えているこの世の
 
 殿に義を通そうとしたのか」という処が、真の心の使い処として、大切なところでした。
 
 聖書には、「たとえ横暴な主人であっても、主の故に従いなさい」とあります。ただし、
 
 それは、キリストを信じる信仰が否定されない範囲の中での忠義ですから、「もしキリストを
 
 信じる信仰を捨てて、この世の殿に従え」と言われるなら、キリシタンは「潔しとせず」
 
 という心を表わして行ったのです。すなわち、彼らの滅私奉公の精神は、どこまで行っても
 
 「キリストを信じる故の忠誠心」であって、もし「信仰を捨てて従え」と言われた時、
 
 彼らは、自分の命が裂かれることがあっても、真の殿への忠義心に命を懸けて行ったのです。
 
 ですから、キリシタン武将の「義を通す」という、心の使い処は、いつも「イエス・キリスト
 
 に対して義を通す事」が第一であり、「まず、絶対主の国と絶対主の義」を優先することが、
 
 はっきりしていました。それは、今日の私たちにとっても言える事です。「この世の義を
 
 第一とするか、絶対主の義を第一とするか」、ここに、私たちの心の使い処の価値が決まり
 
 ます。その判定の土台は、この世は罪の世であり、私たちは罪人です。ですから、この世に
 
 価値を置かず、自分自身にも価値を置かない。クリスチャンは、聖書の御言にのみ価値を
 
 置き、その御言に従う。これこそが、キリストの贖いによって、真の義を得たクリスチャンの
 
 生き様なのです。その生き様は、自分の死を覚悟してこそ、真の忠義が表わされて行きます。
 
 ですから、「死に至るまで、忠実でありなさい」が、私たちへのメッセージなのです。
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