『「砕かれた心を持ったのかどうか」を確認する方法』
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絶対主は、「私たちが罪人として認めたかどうか」を確認する時、私たちが砕かれた心
を持ったかどうかを見られます。詩篇51篇を見ると、ダビデが罪を犯した時、絶対主へ
の悔い改めは「いけにえ」という行為ではなく、「絶対主へのまことのいけにえは、
砕かれた魂、砕かれた悔いし心。絶対主よ。あなたは、それをさげすまれません」と告白
しています。(詩篇51:16~17)ですから、絶対主は罪を犯したことへの悔い改めは、
口先の告白ではなく、絶対主の前に「罪を認めた砕かれた心」があるかどうかを見られる
のです。そこで、私たちも罪を犯した場合、砕かれた心をもって主の前にへり下ったか
どうかは、怒られた時の対応で分かります。もし罪を犯したのに、「怒られることを嫌
(いや)がったり」、「怒られるような自分はダメダ」と自己嫌悪に陥るなら、心は暗く
なり、心は閉じて、顔はむくれ顔になります。この顔は、「罪人が罪を犯したのに、それを
認めず、反発している心の表れ」です。それを絶対主が見られた時、罪人の人間が罪を
犯しているのに、あえて罪を認めようとせず、顔を曇らすのは、「自分が罪人として認めて
いない表れだ」として断罪されます。ですから、元々罪人である私たちが、罪を犯した
のですから、罪を認めて心を砕くのは当然です。それを、罪を犯しておいて怒られたく
ないと弁解するのは、もってのほかです。私たちに出来ることは、「もう罪を犯さない
人間になります」という見せかけの悔い改めではなく、むしろ、元々罪人であったので、
罪を犯したのです。ならば、「言い訳も、逃げる心も、反発も出来ない自分であること」
を認めて、心を開いて怒られるべきです。自分を守ろうとする心を砕いて、「砕かれた心」
をもってへり下るべきです。そうすれば、むくれ顔や心を閉じて暗くなることはあり
ません。それが、砕かれた心を持って、悔いている心の表れなのです。絶対主は、罪人が
へり下っているその心を見られます。ですから、私たちは、怒られた時、人から怒られ
ていると思うのではなく、「絶対主から怒られ、言われているのだ」と心を変えるべきです。
すると無条件に、罪人が犯したのだから、怒られるのは当然だと思え、「100%罪人
だと認めてしまった自分」がいることに気づくでしょう。すると、初めて霊の心が開かれ、
霊の心の本心が出てくるのが分ります。この心を以て謝るなら、絶対主は、「良し」
として下さるのです。「その砕かれた心は、さげすまれません。」ここから、始め出し
ましょう。人に怒られていると思うと反発が出ますが、絶対主から怒られていると思うと、
自分を砕けるのです。
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