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2016年 NO.574 |
カトリックの神学の基礎を作ったトマス・アクィナスという哲学者は、「人間の意志は堕落して 罪に落ちたが、知性はその影響を受けなかった」と言いました。この考え方によって、「人間は 自分の知性に信頼を置くことが出来る」と考え、人々は聖書の教えと非キリスト教の哲学を 取り入れてもよいと思うようになりました。そして、罪に落ちた人間が、キリストの救いに 預れる人間となるために、自分の努力によって神のもとに立ち返ることができると考えるように なり、ここからルネッサンスのヒューマニズム(人間の自立と人間中心主義)の考えが入って 来たのです。しかしながら、聖書にはそのように記されていません。最もずる賢いサタンは、 「取って食べるなと、本当に絶対主が言われたのですか」とエバに疑問を投げ掛けました。 彼女は、それを聞いて知性を用いて考えました。するとサタンは、「それを食べる日に、 あなたの目が開け、絶対主のように善悪を知る者となります」と畳み掛けて来たのです。 それを聞いた彼女は、「賢くする木のように見えたので、その実を取って食べ、夫にも与えた」 という行動を自分の知性と意志を用いて取りました。そして、絶対主の言葉に背いたのです。 ですから、人間は意志も知性も堕落して罪を犯した者であり「全的堕落」の罪人となったの です。「知性という、考える部分は堕落していない」と考えることは誤りであり、人間の 身勝手な見方です。しかしながら、今日のクリスチャンを始め、この世の全ての人は、自分の 知性に頼り、「自分は、こう思う」という頑なさを主張して、自分の義を立てようとするの です。それは、ルシファーの陥った原罪そのものです。ですから、本来の私たちは、自分の 知性も意志も感情も罪に汚れているのです。すると自分に信頼を置けない私たちは、 何に依り頼んで立つべきかは、「聖なる絶対主と聖書」しかないということです。その絶対主の ことばも、我々の知性では、全てを理解出来る訳ではありません。なぜなら、私たちの 「見たことのないもの、聞いたことのないもの、手で触ったことのないもの」が記されている からです。ならば、「信じて受け留める」しかありません。これが、私たちの信仰の心です。 このことが分かれば、自分の頭で分からないから「信じれない、従えない」というのは 間違っています。また、頭で分っても心が付いて行かないから(感情)、「信じれない、 従えない、認めれない」という考えも間違っています。私たちの知性も感情も意志も堕落して、 罪に汚れています。なのに、自分に頼り、根拠を置くのはサタンの騙しです。私たちは、 空っぽの器ですから、素直に絶対主を信じて行く道が正しいのです。なのに、自分の知性に 拠(よりどころ)を置く生き方は止めましょう。「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」 からです。 |
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