(起) 「イエス様から永遠に渇くことのない水をもらい、エネルギーを受けて、主の働きを
させていただく」ということについて、学んでいきたいと思います。
(承) さて、ヨハネの福音書1:1を見ると、「初めに『言』が存在した」とあります。
私たちがこの世で理解している「言葉」というものは、目に見えず、すぐに空気中に消えて
無くなってしまうようなものです。しかし、ヨハネの福音書に出てくる「言」というのは、
そのようなもののことを言っているのではありません。2節を見ると、「このお方は、初めに
絶対主と共に存在した」とあります。「このお方」ということは、一つの位格を持っている
ということですから、それは空気中に消えて無くなってしまうような存在ではありません。
しかも、「初めに絶対主と共に存在した」とありますから、私たちのような普通の人間とは
違う世界のお方だということが分かります。そして1:3を見ると、「すべてのものは、この
お方によって造られた」とありますから、「言=創造主」ということが見えてきます。
これらの御言葉によって、「言とはイエスキリストのことである」ということが、明確に
記されているのです。そして、ヨハネが「言が人となって現れた」と証言したのは、イエス・
キリストのことです。彼は、「このお方こそ、世の罪を取り除く絶対主の小羊。この方は、
聖霊によってバプテスマされる方です。」と、人々に語りました。だから、ヨハネはこの方から
罪を取り除いてもらうために「悔い改めなさい」と叫び、イエス様から「聖霊のバプテスマを
授けてもらいなさい」と説いたのです。
(転) さて、今日の私たちも、当時の人々と同じようにイエスキリストを信じ、「罪の悔い
改めによるバプテスマ」を受け、罪の赦しを受け取りました。しかしながら、それだけでは、
力強くイエス様を証しして行く力はありません。「イエス様を信じ、罪が赦された者」は、
ヨハネが語ったように、イエス様から「聖霊のバプテスマ」を授けてもらう必要があります。
それによって、私たちがイエス様にあって力強く生きて行くためのエネルギーを貰うのです。
そのエネルギーは、「その人の中で泉となって沸き上がる」ものです。確かに、私たちは
イエス様を信じたことにより、新しく生きる者とされました。しかし、新しく生きて行く者は、
「御霊によって生きて行きなさい」とあります(ロマ8:1)。この御霊によって生きていく
には、「聖霊の満たし」が必要です。しかし、聖霊の満たしを受けていないクリスチャンは、
いつも、力不足を感じ、罪深い自分を見てに嘆いています。そこにはエネルギーが与えられて
いないからです。毎日聖書を読んだとしても、また、毎日祈ったとしても、そしてメッセージを
聞いていても、その喜びはその時だけで、それが自分自身の中に留まらず、力強いエネルギー
となって留まらないのです。その状態では、私たちはやっていけません。
ですから、私たちには絶対に聖霊の満たしが必要なのです。聖書の中に、サマリヤの女と
イエス様が会話している場面があります。そこでイエス様は、「わたしが与える水を飲むなら、
誰でも永遠まで決して渇くことがありません。そして、わたしが与える水はその人の中で泉と
なって湧き上がり、永遠の命に至らせるのです」(ヨハネ4:14)と言われました。
私たちは、「その水が欲しい」と願うべきです。使徒行伝にあるように、ペテロやパウロが
味わった力と同じように、私たちも、「信じる者に働く全能主の力を味わいたい」と、強い霊的
な飢え渇きを持つべきです。私たちはこのサマリヤの女のように、「私が渇くことがなく、
また、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と、必死になってイエス様に
求めていく必要があります。
(結) では、どのようにしてその満たしを受けることが出来るのでしょうか?
聖書には「わたしを信じる人は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける
水の川があふれるでしょう。」(ヨハネ7:38)。と書かれています。それを語られたのは、
イエス様です。ならば、私たちはその水をイエス様からもらいましょう。本気で欲しいと願う、
その飢え渇いた心があるのなら、イエス様に談判すべきです。私たちにとって一番の願いは、
聖霊のバプテスマを授けてもらい、この飢え渇きを満たしていただいて、「信じる者に働く
全能の力を味わうこと」です。これを生きている内に味わい、主の働きに用いてもらうことです。
そして、主の働きに、「この命を使って頂き、全うさせてもらった」となれば、喜びを持って
天に行かせて戴くことが出来るはずです。ですから、今こそ本気でイエス様に願い、二度と渇く
ことのない水をもらいましょう。そして、エネルギーを受けて、主の働きを大胆にさせていただ
こうではありませんか。
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