(起) 「必死になって主に叫び求め、朽ちない冠を得るために全力で走り続けて行く」という
ことについて、学んで行きたいと思います。
(承) さて、25節を見ますと、「すべて競技をする者は、何事にも節制します。
彼らは、朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは、朽ちない冠を得るためにそうする
のです」とあります。いくら競技場で冠を得たとしても、それが、いずれ朽ちていくものなら、
本当の喜びを味わうことはできません。ところが、私たちが目指すのは、朽ちることのない、
永遠に輝く冠です。ですから、もし永遠に輝く冠を得ることができたなら、それは私たちに
とって価値のある努力となります。だからこそ、私たちはその冠のため、肉のことはほどほど
にし、霊の事柄の為にはどこまでも主に頼ってやって行くべきです。しかも、27節には、
「自分の体を打ち叩いて服従させます」とありますから、「どんなことがあっても、諦めない
姿勢」が必要です。そして、「何が何でも朽ちない冠を得るのだ」という本気の心で、何事にも
全力で主に頼り、一生懸命にやって行くべきです。
(転) しかしながら、私たちの内には二面性があります。一つは、上記のように、全力で主に
頼って生きて行こうとする「新しい自分」と、もう一つは、生まれながらに罪の中にあって
消極的な「古い自分」です。私たちは、この二つを合わせ持っています。この二面性を持つ
私たちが、古い自分でどんなに主に頼ったとしても、実を表すことはできません。古い人は、
失敗を恐れて一生懸命しないからです。この「古い自分」が、「罪を犯さない自分」になるこ
とはできません。だから、失敗を繰り返します。失敗した時、「『主よ、助けて下さい』という
気持ちで一生懸命やりました」と言ったとしても、それは自分勝手な言い訳に過ぎません。
「失敗した」という事実がある以上、「新しい人」によって、実を表していないからです。
だから、怒られるのは当然のことです。その時は、「生れながらの自分は罪人なのですから、
失敗して怒られるのは当然です」と、へりくだって受けとめて謝るべきです。そして、
「もう一回、主に頼ってやって行こう」という方向に心を変え、全力でやって行くのです。
これが、新しい人の生き方です。確かに、生まれながらの私たちは、どうしようもない罪人で、
裁かれるだけの人間でしたが、絶対主の憐れみとイエス様の贖いによって御国に繋がれ、主に
あって生きて行く、「新しい自分」を頂いたのです。だから、「永遠に輝く冠を得るために、
競技場で走ることができる」という、特別な立場を与えられたのです。ならば、何事においても
全能主に頼り、結果を出すために全力を注いでやって行くべきです。もしその気持ちがない
のなら、クリスチャンとして競技場に置かれる意味がありません。「主に頼ってやって行く」と
言いながら、自分の力に頼り、怒られないようにほどほどの努力でやって行こうとする者は、
最後には、失格者になってしまいます。すなわち、地獄に投げ落とされてしまう可能性がある
ということです。そうなってしまったら、いくら泣いて歯ぎしりしても、どうにもなりません。
ですから、クリスチャンがたとえ競技場に入れられたとしても、天に繋がるかどうかは、
「この地上にあって、どこまでも主に頼り、全力で走り抜くかどうかによる」ということです。
手を抜いて胡坐をかいていたら、泣いて歯ぎしりすることになるのです。
(結) クリスチャンは今、主の御心を行って永遠の冠に繋がる競技場で走ることができる
という、特別な立場に置かれました。それなのに、全力を尽くさず、手を抜いて走っている者
を絶対主が許されるわけがありません。競技をする者は、とにかく冠を得るために主の御心の
為に必死になって走るのです。私たちは、その中で結果を出さなければ、クリスチャンとして
生きる意味がありません。たとえ失敗をしても諦めずに、へりくだって「もう一回やらせて
下さい」と言って、主に頼ってやって行くその必死さに、意味があります。しかも、「永遠の
冠を得る者となりたい」と本気で願うなら、自分が持っている能力の範囲の中で、怒られない
ようにやって行こうとする、ズルい考えを捨てて下さい。私たちは、必死になって主に叫び
求めて行くのです。そして、失格者とならないために、自分の体を打ち叩いて服従させ、
朽ちない冠を得るために、全力で信仰の道を走り続けて行くのです。どうか、一人一人が本気の
心を持ち、この生き方を始め出しましょう。
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