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2016年5月8日



永遠に価値ある心とは、何か

マルコの福音書14:26~31



(起)「永遠に価値ある心とは、何か」ということについて、学んで行きたいと思います。

(承) さて、イエス様は、弟子たちに対して、「あなた方は皆、今夜わたしにつまずきます」

と言われました。それに対して即座に反応したのはペテロで、「たとい、みんなの者が

つまずいても、私はつまずきません」と答えます。しかし、実際は、この後、彼はイエス様の

ことを「知らない」と三度言ってしまうのですが、この時点では、この気持ちに嘘はなかったと

思います。私たちも、もし現実にこの場面に立ったとしたら、ペテロと同じように言ったかも

しれませんし、少なくとも、自分の正義感に立って、力んだ言い方をしたとしても、「100%

間違っている」と否定することはできないと思います。皆は、「これまで、イエス様を主として

従って来たのですから、最後まで従って行くのが人間の道義であり、そうすることが正しい」と

思うでしょう。しかし、その考え方が、天においても通用するとは限りません。なぜなら、
「何が

正しいか」という価値観は、その場所や時代によって変わって行くからです。
どういうことかと

申しますと、例えば、学校では、「一生懸命勉強をして良い成績を取ることが何よりも大事で、

正しいことだ」という価値観があります。ところが、社会に出たら、その価値観は変わります。

社会では、「学校の成績が良かった」ということよりも、「いかに人受けし、見栄えが良いか」

ということの方へ価値観が移って行きます。このように、価値観というのは、その場所や時代に

よって変わって行くということです。


(転) では、私たちの場合、どこに価値を置いて歩んで行けば良いのでしょうか。それは、

絶対主とイエス様がおられる、御国に価値を合わせることです。この永遠の世界に価値を合わせる

こと、すなわち、絶対主やイエス様と心を合わせて行く、永遠の御国に価値観を置くということ

です。なぜなら、私たちの国籍はの天の御国であり、その御国で生きて行く者になるからです。

だから、今の地上の価値観で生きて行ってはいけないのです。
絶対主と心が通じ合う御国の

価値観で、今から生きて行くべきです。
そうでないと、永遠の御国で喜んで交わりを持つことの

できる世界に入ることが出来なくなります。これが、
私たちにとって一番価値ある場所ですから、

その場所で通用する価値観に立って今から生きて行くべきです。
ですから、御国の世界では、

大金持ちであるとか、地位があるとか、成績が良いとか、見栄えが良いとか、運動神経が良い

とか、ということは全く関係ありません。
天において、絶対主に通用する心は、「悔いし砕かれた

心」だけです。私たちは罪人ですから、遜りの心を今養っておかなければ、御国に入ってからでは

遅いのです。
この地上では、罪を犯すこともありますし、失敗をしでかします。失敗をすれば、

怒られます。その時に、「自分が間違っていました」と正直に受け留めて行けば、心の中に

「それでいい」という光が灯ります。それは何故かと言いますと、絶対主が、「それで良い。

その心をわたしは蔑まない」と言って下さるからです。私たちがどんなに恥ずかしい失敗を

しても、どんな過ちを犯しても、「本当に自分が間違っていました」と認めて、その罪の報い、

お叱りを受けたなら、絶対主は「それで良い」と言って下さるのです。
この「悔いし砕かれた心」

こそ、絶対主とイエス様の前に通ずる価値ある心です。
例えば、イエス様と一緒に十字架に

つけられた強盗は、イエス様を信じる心で、ずっとイエス様と共に歩んできた訳ではありません。

しかし、彼はパラダイスに引き上げられました。それは、十字架上で、「自分たちは罪を犯した

罪人だから、報いを受けるのは当然だ」と言ったからです。ただそのように言っただけで、

イエス様は、「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます」と言われたのです。

イエス様は、罪人であることを認めている者の為に、罪の贖いをして下さったからです。逆に、

「自分はイエス様を信じて、一生懸命義を行って証をしてきました。」と言って、義を自分の

お土産として天に持って行こうとし、受け入れられようと思っている人がいます。しかし、

「義人は一人もいない」という事実を認めていない人は、永遠の世界では受け入れて
もらえま

せん
。それなら、イエス様の死が無意味になるからです。それは全く通用しない考え方です。

(結) このように、「永遠に価値ある心」とは、「悔いし砕かれた心」です。ですから、

私たちは、今この地上において、「悔いし砕かれた心は本当に価値あるものだ」ということを、

実際に経験していかなければなりません。
それを経験していかないと、ペテロのように力んで、

「自分は、努力して頑張りますから」と言う方向に向かって行ってしまいます。それを言って

しまったら終わりです。絶対主から、「じゃあ、自分の努力でやりなさい。お前には、イエスの

贖いは必要ないのだな」と言われてしまうのです。
絶対主に受け入れられるのは、たとえ努力した

としても、「自分は罪人です。何もできませんでした」という、砕かれた心だけです。私たちが、

その心を持った時に初めて、「そこから始めなさい」と、絶対主は言って下さいます。
どうか、

永遠に価値あるこの心を、この地上で掴み、生涯持ち続けて行こうではありませんか。
 

 


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