(起)「純粋なしもべの心を持って、絶対主の前に歩んで行く」ということについて、学んで
いきたいと思います。
(承) さて、ヤコブとヨハネは、イエス様に対して、「栄光をお受けになる時、あなたの右と左に
座るようにして下さい」と願い出ました。彼らは、天の御国についての理解が無く、ただ地上的な
感覚で「王の右と左に座る大臣となって、権力を振るえるような者になりたい」と思い、このような
ことを言ったのだと思われます。ところが、イエス様は、地上の価値観で物事を見ておられるのでは
なく、天の価値観で物事を見ておられましたから、「この地上ではなく、天で幸いを得る者とは
どういう者か」ということを、弟子たちに教えられました。それが、42~44節です。ここで
イエス様が語っておられる「仕える者」というのは、ただ、「職業的に仕える」ことでは
ありません。「職業的に仕える」というのは、「会社の社長や上司に仕えていけば、自分に利益が
返ってくるので仕える」という考え方です。この仕え方は、「自分の利益を中心にしていますので、
職業的に仕える」ということになります。ところが、イエス様が言っておられるのは、自分の利益の
ための損得勘定で仕えるのではなく、「たとえ自分が損をすることがあっても、誤解されることが
あっても、死ぬことがあっても、主人のために純粋に仕えていく」という本気の心の仕え方のこと
です。
(転) では、私たちが、そのような純粋なしもべの心を持って、主に仕えて行くには、どうしたら
良いのでしょうか。それは、まず「自分は罪人である」という明確な自覚を持つことです。しかし、
このことは、「自分は罪人で、何の取り柄もない人間だから、しもべとなっていくのだ」と、
自虐的に言い聞かせて仕えていくものではありません。大切なことは、「『罪人である私たちに目を
留めて下さったお方がいらっしゃる』というところに心を向けること」です。本来、罪人というのは
誰からも顧みられず、ただ裁かれて、地獄に行くだけの者です。ところが、絶対主は、そんな罪人に
心をかけて下さり、「地獄から救い出そう」と考えて下さいました。ご自分の一人子である
イエス様の命と引き換えにしてまで、私たちを地獄の裁きから救い出し、天の御国で生きて行く
ことのできる者として下さったのです。ですから、絶対主が罪人のために、そこまでのことをして
下さったのですから、それを知った私たちは、自ら進んで絶対主に対して真心からのしもべとなり、
損得も何もかも捨てて、純粋に、「絶対主に仕えて行きたい」という心を抱いていくようになるはず
です。しかしながら、たとえ純粋な心で仕えようとしても、私たちは罪人ですから、仕え方において
失敗したり、時には、絶対主の心に反することをしてしまうかもしれません。そういう時には当然
怒られます。しかし、たとえ怒られることがあったとしても、それは自分がしたことですから、
「そのとおりです」と言って頭を下げ、その事実を受け留めて行くべきです。私たちが受けるべき
罪の報いと苦しみは、イエス様が既に十字架上で全部受けて下さいました。ですから、私たちは
自分の罪をごまかし、その責任を負うことから逃げる必要はありません。「100%自分が
悪かった」と、正直に認めて行けばいいのです。それをしていくならば、絶対主は、「お前が
罪人であることは初めから分かっているから、お前自身がそれを認めているならそれで良い。
イエスの贖いの故にお前を赦そう」と言って下さるのです。どんなに人から侮辱され、冷たい目で
見られたとしても、私たちは、救われた罪人に過ぎないのですから、「自分が悪いのです」と、
受け留めて行く者を、絶対主は軽んじられません。むしろ、「その悔いし砕かれた心を、わたしは
蔑まないから、これからもその心で仕えて来なさい」と言って下さいます。これが、絶対主に仕える
純粋なしもべの心です。
(結) こうして、私たちは、イエス様が言われたように、「偉くなりたいと思うのではなく、
むしろ、仕える者の心を持って」、生きて行こうではありませんか。イエス様は、私たちの罪の
贖いの代価として、ご自分の命を差し出して下さいました。私たちは、今日、そのイエス様の救いを
信じ、受け取らせていただいたのです。ならば、もう自分の罪に対して、恐れて逃げて行く必要は
ありません。自分の犯してしまった罪や失敗を100%認め、受け留めて行くことは、辛いことかも
しれませんが、それをしたあとには、「それで良いのだ」という心が、絶対主から与えられ、
心の内に光が灯るのです。いくら人から冷たい目で見られても、その心の光は消えません。
だからこそ、私たちは絶対主の前に、どこまでもしもべとして仕えて行くことができるのです。
どうか、この純粋なしもべの心を持って、絶対主の前に歩んで行こうではありませんか。
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