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2016年5月1日



純粋なしもべの心を持って、絶対主の前に歩んでいく

マルコの福音書10:35~45



(起)「純粋なしもべの心を持って、絶対主の前に歩んで行く」ということについて、学んで

いきたいと思います。


(承) さて、ヤコブとヨハネは、イエス様に対して、「栄光をお受けになる時、あなたの右と左に

座るようにして下さい」と願い出ました。彼らは、天の御国についての理解が無く、ただ地上的な

感覚で「王の右と左に座る大臣となって、権力を振るえるような者になりたい」と思い、このような

ことを言ったのだと思われます。ところが、イエス様は、地上の価値観で物事を見ておられるのでは

なく、天の価値観で物事を見ておられましたから、「この地上ではなく、天で幸いを得る者とは

どういう者か」ということを、弟子たちに教えられました。それが、42~44節です。ここで

イエス様が語っておられる「仕える者」というのは、ただ、「職業的に仕える」ことでは

ありません。「職業的に仕える」というのは、「会社の社長や上司に仕えていけば、自分に利益が

返ってくるので仕える」という考え方です。この仕え方は、「自分の利益を中心にしていますので、

職業的に仕える」ということになります。ところが、イエス様が言っておられるのは、自分の利益の

ための損得勘定で仕えるのではなく、「たとえ自分が損をすることがあっても、誤解されることが

あっても、死ぬことがあっても、主人のために純粋に仕えていく」という本気の心の仕え方のこと

です。

(転) では、私たちが、そのような
純粋なしもべの心を持って、主に仕えて行くには、どうしたら

良いのでしょうか。それは、まず「自分は罪人である」という明確な自覚を持つことです。しかし、

このことは、「
自分は罪人で、何の取り柄もない人間だから、しもべとなっていくのだ」と、

自虐的に言い聞かせて仕えていくものではありません
。大切なことは、「『罪人である私たちに目を

留めて下さったお方がいらっしゃる』というところに心を向けること」です。
本来、罪人というのは

誰からも顧みられず、ただ裁かれて、地獄に行くだけの者
です。ところが、絶対主は、そんな罪人に

心をかけて下さり、「地獄から救い出そう」と考えて下さいました。ご自分の一人子である

イエス様の命と引き換えにしてまで、私たちを地獄の裁きから救い出し、
天の御国で生きて行く

ことのできる者として下さったのです
。ですから、絶対主が罪人のために、そこまでのことをして

下さったのですから、それを知った私たちは、自ら進んで絶対主に対して真心からのしもべとなり、

損得も何もかも捨てて、純粋に、「絶対主に仕えて行きたい」という心を抱いていくようになるはず

です
。しかしながら、たとえ純粋な心で仕えようとしても、私たちは罪人ですから仕え方において

失敗したり
、時には、絶対主の心に反することをしてしまうかもしれません。そういう時には当然

怒られます。しかし、たとえ怒られることがあったとしても、それは自分がしたことですから、

「そのとおりです」と言って頭を下げ、その事実を受け留めて行くべきです。私たちが受けるべき

罪の報いと苦しみは、イエス様が既に十字架上で全部受けて下さいました。ですから、私たちは

自分の罪をごまかし、その責任を負うことから逃げる必要はありません。「100%自分が

悪かった」と、正直に認めて行けばいいのです。それをしていくならば、絶対主は、「お前が

罪人であることは初めから分かっているから、お前自身がそれを認めているならそれで良い。

イエスの贖いの故にお前を赦そう」と言って下さるのです。どんなに人から侮辱され、冷たい目で

見られたとしても、私たちは、救われた罪人に過ぎないのですから、「自分が悪いのです」と、

受け留めて行く者を、絶対主は軽んじられません。むしろ、「その悔いし砕かれた心を、わたしは

蔑まないから、これからもその心で仕えて来なさい」と言って下さいます。これが、絶対主に仕える

純粋なしもべの心です。


(結) こうして、私たちは、イエス様が言われたように、「偉くなりたいと思うのではなく、

むしろ、仕える者の心を持って」、生きて行こうではありませんか
。イエス様は、私たちの罪の

贖いの代価として、ご自分の命を差し出して下さいました。私たちは、今日、そのイエス様の救いを

信じ、受け取らせていただいたのです。ならば、もう
自分の罪に対して、恐れて逃げて行く必要は

ありません
。自分の犯してしまった罪や失敗を100%認め、受け留めて行くことは、辛いことかも

しれません
が、それをしたあとには、「それで良いのだ」という心が、絶対主から与えられ

心の内に光が灯るのです
。いくら人から冷たい目で見られても、その心の光は消えません

だからこそ、私たちは絶対主の前に、どこまでもしもべとして仕えて行くことができるのです。

どうか、この純粋なしもべの心を持って、絶対主の前に歩んで行こうではありませんか。 

 


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